かわいそうって思った瞬間に誰か殺してるのかも

って思った話しますが、は~?何言ってんだコイツ…となると思います。
当たり前だろって思われるのかもしれない。わかんない。結論はまだ迷っているのに書きました。



「かわいそう」っていうのは、相手のことを下に見ているときにしか出ない言葉だ、って。
小学生の時だったと思います、塾に通っていたので5年生か6年生くらいかなあ…国語の問題に使われていた文章で読みました。
目から鱗が落ちましたよね。今までそんなこと考えたこともなかった、そうだったのか、いや確かに考えてみればわたしはそうだったのかもしれない。それは、なんだか嫌だなあと思った。
だから、「わたし、かわいそうって言うの、やめる!」なんて、家に帰って開口一番親に叫んだりしました。



高校の頃まで、何かをみたり聞いたりして泣く、ってことがなくって。
映画、ドラマ、アニメ、小説、ドキュメンタリー、誰かのお話。
感動しないわけじゃないんです、喉の奥がキュッとなって、鼻がツンとする。腕に鳥肌が立って、首筋から腰までをなにかがゾワッと駆け巡る。でも涙は出ない。
大学に入ってから、泣くようになりました。最初はなんだっけ、ドラマだったか、アニメだったか。ブログを読んで泣いたこともあるし、ドキュメンタリーでも泣きましたね。
同時に、(あ、これは泣いちゃだめだ)って思うことも増えました。


その違いは多分、自分のことを考えて泣いているか、他人のことを考えて泣きそうになっているかなんですよね。
わたしは「かわいそうって言うの、やめる!」に囚われて成長してしまった。
でも、「かわいそうって言うの、やめる!」なんて言っていても、わたしは慣用句みたいに「かわいそう」って言ってしまっているし、思ってしまっていて。
そのたびに、ああまただ、これはダメ。泣いてはいけない、わたしがジャッジしてはいけない、って。
でもそれは本当に、そうなのかな、と思ってこれを書きました。
「かわいそう」だと思うこと、口にすることは本当に罪なのか。


高校の頃から好きな漫画家の方がいて。江野スミさんと仰る方なんですけど。その方、今裏サンデーとマンガワンで『亜獣譚』という作品を連載されています。江野先生が「残酷な物語をどうして描くのか」というツイートをされていました。

文章は少し違いますが、『亜獣譚』一巻のカバー裏にも書いてあります。
「恐ろしい」ことを知ることは、かわいそうだと思うことに似ているのかもしれない。
だとすれば、(かわいそう)は罪ではない。
でも、「かわいそう」で止まることは、やっぱりきっと、「かわいそう」で片づけられた誰かのこころに刺さったナイフを、もうすこし深く刺し込むことに似ているんだと思います。

もちろん気持ちに寄り添うことが必要な時もある。それだけでいい時もある。でもそれなら、「かわいそう」じゃなくていいはずなんです。
「かわいそう」と口に出した瞬間に、それで終わらせようとした瞬間に、わたしはきっとその人を殺す。
だから、(かわいそう)と思った瞬間に、わたしは自分を殺していた。
でも、本当は、だれも殺さなくていいってのがいっとういい策です



で、ここからは迷っている結論。
(かわいそう)でも「かわいそう」でも、自分も他人も誰も殺さないようにしたいなら、
きっと行動するしかないんじゃあないかなって。
でも、行動っていうのは積極的なものか、受動的なものか、それとも既に行っている行動の継続なのか。
考えなくちゃいけない。確立された答えはない、あってはならない。
どうしたらいいのかなんて、きっとずっとわからない。
わからないままでいいとは言えない。でもきっと、わからないままでいなくちゃいけない。メメントモリ、明日世界が終わるのなら、最後の晩餐は鯛茶漬けにします。