#ふらここ深耕 第51回~第100回まとめ
#ふらここ深耕は、「ふらここ」が毎週月曜日に投稿している一句鑑賞企画です。どうぞご覧ください。
(執筆者一覧)
山田祥雲 (51・58・63・68・73・78・82・86・90・93・97)
中川多聞 (52・59・64・69・74・79・83・88・94・98)
横井来季 (53・60・65・70・75・80・84・87・91・95・99)
兵頭洸亮 (54)
八木大和 (55・72・77・81・89・96・100)
柴田侑秀 (56)
夜行 (57・92)
姫子松一樹(61・66)
日向美菜 (62・67・71・76・85)
51回 山田祥雲
船頭の耳の遠さよ桃の花/各務支考
渡し船なんかに乗っている景がイメージされました。こちらが話しかけても船頭は耳が遠くて反応を示してくれない、というのはなんだか俗世から離れていく感覚があるなぁと思います。とはいえホラーではなく、桃花源記のような世の離れ方でしょうか。舟の進みもそうですが桃の花も見えてくることで、とろんとした空気感を覚えました。
52回 中川多聞
少女来て少年さらふ木下闇/小島健
木下闇は少年をさらった少女の心の闇を表しているのだろうか、それとも、二人ははじめ清純な気持ちで拐かし、拐かされたが、それでもいずれ汚れていくということを木下闇によって示しているのか。
いずれにせよ、木下闇という季語によって、この句は深いボーイミーツガールになっている。
53回 横井来季
よい夢はてのひらに似て今日穀雨/未補 「水を刷く」(2021年1月)
良さを説明しようとすると難しい句だが、手のひらに似たよい夢を見たあと起床すると、今日は穀雨であった(おそらく雨も降っている)、という、景としてはむしろ理解しやすい俳句だと思う。
人は毎日夢を見ている。しかし、怖い夢嫌な夢ほど記憶に残りやすいため、よい夢やどうでもいい夢を、人は忘れてしまう。だからこそ、逆に、偶に覚えているよい夢は、てのひらのように柔らかい、全てを受け入れてくれるような感覚を持っていると、主体は把握した。よい夢「は」てのひらに似ているとは、そういうことだろう。
ただ、それだけでは夢独特のふわふわとした感覚だけの句となってしまう。この句の「夢」と「てのひら」に確かな質量を持たせているのは、下五の「今日穀雨」である。「穀雨」を気にするということは、おそらくこの主体は農業に従事している人なのだろう(農業従事者でなくとも穀雨を気に掛ける人もいるだろうから、ここは解釈が分かれる)。それによってこの句の「てのひら」は、肉体労働に従事した、土の匂いに皺ついたてのひらであろうと想像できる。また、「今日」と強調することで、逆に、カレンダーを見て今日から穀雨だと理解した、という風ではなく、肌感覚で今日は穀雨であると感じとった雰囲気が出ている。
54回 兵頭洸亮
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの/池田澄子
私たちが生まれてくること、それの行先はじゃんけんによって決まると言う面白い発想の句。夏の夜空を美しく照らしてくれる蛍は、生まれてくる前にきっとじゃんけんで負けてしまったのかもしれないという、一種の物悲しさ、儚さがあるがそれだけではなく、蛍に生まれたことに対する幸せや来世こそ勝とうなどという色々な思いが混ざっていると思う。正直、「蛍」という季語はこの句が史上最高の句であると思う。
55回 八木大和
新涼や檣を小叩く縄梯子 『光聴』岡田一実
強めの風によって縄梯子が揺れ、檣にこつこつと音を立てながら小叩いている。この句をいい句たらしめているのは、「誰もが想像しやすい景色であること」、「小叩く、の動詞の妙味」だろう。
前者は、舟に詳しい人でなくとも一度はこういった光景を見たことがあるはずなのだ。旗を上げ下げする掲揚台のロープもそのひとつ。意外となさそうで、我々の社会の中に溶け込んでいる光景だ。
後者は岡田一実さんの持ち味とも言える、「言えそうで言えない動詞の活用」。皆さんにも意識して作ってみてほしいのだが、このやり方はとても難しく、長い間磨かれてきた写生の眼を持った岡田さんならではの技術だと考える。俳諧味もこの句の奥の方にひそんでいて、完成度が高い。
56回 柴田侑秀
暖かや飴の中から桃太郎/川端茅舎『川端茅舎句集』
飴の断面に桃太郎の図案があるということを言い切っただけの句ですが、季語と強く結びついて離れない強烈さもあります。飴という小さなものに視覚を寄せ、それ以外の感覚で背後に春の陽気さを感じ入るような強迫的な壮大さも感じ取れます。
57回 夜行
研ぐべきはみな研ぎ了へし立夏かな/友岡子郷 『海の音』 (2017)朔出版
「研ぐべき」は例えば包丁や鎌などだろう。祖母が鎌でマムシを屠っていたのを思い出す。来たるべき夏の恵みや脅威に備えて、立夏の日に研ぐべき刃物をすべて研ぎ終えた。作業を終え、心持ちまで研ぎ澄まされるようである。先週の5日は立夏。穏やかな春も終わり、夏本番に向けて空気が洗練されてゆく気配を感じる。この人物はそんな中で静かに、しかし万全を期して夏を迎えた。研ぎ終えた刃物の気持ちのよい光が並ぶ。よい夏になるに違いない。
58回 山田祥雲
水着なんだか下着なんだか平和なんだか/加藤静夫『中略』
句の姿がまず面白いじゃないですか。
水着なんだか下着なんだかわからない格好が見えています。海パンやビキニのことでしょう。隠している部分はほとんど同じであるのに下着を見せるのは憚られて、水着はそんなことないんですよね。下着はだめで水着は良いという基準にこれというものは思いつきませんが、みんなそう信じています。
平和もそうなんじゃないですか。平和かそうじゃないかの別も。
面白いだけでなくそれが見えて来もする対置です。
詠者の見ている、水着姿を憚ることのない人たちは平和だと思っていそうですね。
59回 中川多聞
少女二人五月の濡れし森に入る/西東三鬼(『夜の桃』より)
二人の少女が森に入るという記述のみの、一場面を切り取ったような句である。暗い森ではなく「濡れし森」と詠むことによって、句の解釈が多様になる。森はなぜ濡れているのだろうか。植物はその気孔から水を水蒸気として出す「蒸散」を行う。これによって森林の空気は冷え、湿り気をはらむ。五月は現代ほどではないが少し暑くなり始める時期である。そんな時期の森では、涼やかさや湿気も一層感じられるだろう。その様子を「濡れし」と表現したのではないか。植物の気孔は人間の口と似ており、蒸散は植物の吐息のようなものである(仕組みは異なるが)。二人の少女の呼気がはらむ水分は、森の吐息による湿り気と一つになる。少女達はこれから森に入り、森の一部になる。その瞬間を描いた句としても読めるのではないだろうか。
60回 横井来季
星凍ててひづめの音が絡まりぬ/鎌倉佐弓『走れば春』(2001)
この蹄の音は、牛でも豚でも馬でもキリンでもラクダでも良いだろう。様々な蹄の音が想定できる。星が凍てるほどに空気の冷えた夜、硬い蹄の音は一本の線のような響きを持っている。そして、凍星が瞬いた瞬間に、空気の中に広がっていたその蹄の音が、きゅっと絡まった。絡まるという表現は、蹄の音が凍星の鋭い真っ直ぐな月光に、つる草のように絡まったとも、動物たちの蹄の音同士が互いに絡まったとも考えられる。音には形はないから、すぐさま解けてしまうかもしれない。だからこその、それが絡まる緊張感が魅力的だ。
61回 姫子松一樹
ぼうふらの浮力・重力・非暴力/花谷清『球殻』(2018)ふらんす堂
あのぼうふらのふわふわ感は独特で浮力と重力のバランスが絶妙。早くもなくひょこひょことしている様はあの大きさからしてみればそれほど遅くもなく。あるがまま。そんなあるがままでより大きな体の魚などに食われるのだ。そして生き残ったぼうふらは蚊へ。ヒトをはじめ、様々な生物の血を吸う攻撃性を得る。ママはそんな子に育てた覚えはありません!
62回 日向美菜
母と子としづかな食事金魚玉/対中いずみ『水瓶』(2018)
母親と子供の関係は深い。だからこそ、無言でいる方が心地よいと思う時がある。向かい合わせに座っていても視線が合うことはないし、気配を感じても心を留めることはない。これまで共に過ごしてきた時間が為せる静謐な空間。そして、透き通る金魚玉の中もまた静かな空間である。食器の触れ合う音、金魚が水を弾く音は互いの空間に届くことなく消えていく。二つの「しづか」はそれぞれの形で満たされているのだろう。
63回 山田祥雲
水打つて旧町名を思ひ出す/櫂未知子『カムイ』(2017)
町の名前、そしてその変遷にはその町の歴史が反映されています。旧町名のときにはなかったようなものも町の中には増えたかもしれませんが、打った水の沁みていく地面だけは旧町名の頃にもそこにあり続けていました。
打ち水という、遅くとも江戸時代から続いている(しかも繰り返す)行為を通して、その土地の歴史を思った一句だと思います。
64回 中川多聞
夏氷童女の掌にてとけやまず/橋本多佳子
違和感のある句である。子供は大人よりも平熱が高いので、この句が想像で作られたのなら「夏氷がすぐ溶ける」と表現したくなるところだが、おそらく作者は平熱が高いはずの子供の手で氷がなかなか溶けないところを目の当たりにして、そのリアルを写し取ったのだろう。
また、童女という言葉は幼くして死んだ女性の法名につける言葉でもある。死んで冷たくなったから氷が溶けない、と解釈するのは、読みがファンタジック過ぎるかもしれないが、どうだろうか。
65回 横井来季
醒めてしまえば私も空中の菫だ/夏石番矢(『人体オペラ』)
太陽などの強い光を眺めたあと、陽性残像が視界に現れることがある。その残像は、球体が等速直線運動する図のように移動してゆき、徐々に視界から消える。ここでいう、空中の菫とは、そうした残像に近いものだと感じた。もちろん、ただの残像ではなく、菫であるのだから、小ささや控えめさ、花としての情感を持たせているのだろうと考えられる。そして、醒めて「しまう」からは、そうした、定まりなく動く感覚や情緒を否定する主体像が見えてくる。最後に醒めるの解釈だが、これは目が醒めるという意味ではなく、狂気から醒める、正気に戻るといった意味での醒めるだと感じた。つまり、「私」も含めて、人間は正気に戻れば、空中で定まりなく動く弱々しい菫になってしまう、ということなのだろう。
66回 姫子松一樹
花火上るどこか何かに答へゐて/細見綾子『雉子』
この句は具体性がほぼほぼ無い。花火のひかりや音はどこかや何かに答えているのだ。誰かでもいい。声無きそのメッセージはかならずしもそのどこかの何かに届いていることだろう。
67回 日向美菜
船上のひとと目の合う氷菓かな/神野紗希『光まみれの蜂』(2012)
自分にとっては脇役として役目を終えてしまう「誰か」にも、きちんと物語がある。船に乗り大切な人に会いに行くのか、それとも一人旅なのか、そのひとが今船の上にいる経緯に思いを馳せてみる。しかし、目が合うのは一瞬で、そのひとはすぐに視線を反らしてしまう。主体も目が合ったことなどたちまち忘れて、意識は手元の氷菓へと移る。一瞬で溶けてしまう氷菓も、これから関わることのないであろうそのひとも、鮮やかであるのに自分の中には残らない。だが、一瞬でも鮮明に「誰か」や「何か」を意識することが日常であるのだと思う。
68回 山田祥雲
勤めなき身の老い易く更衣/今城余白『聴秋』(1978)
更衣で記の生地薄い夏服に変わったことで、身体の小ささや薄さを実感したのでしょうか。もちろん、退職する前も更衣はしていたでしょうが、仕事を退職して担うものが減ったことで自らを顧みる余白が生まれたということがあるのかもしれません。
この前行った古本市でなんか良さそうだな〜と軽い気持ちで買った句集がとても好みだったので嬉しかったです。今日はその句集から引いてみました。
69回 中川多聞
雪片をうけて童女の舌ひつこむ 西東三鬼
雪の日の空に向かって舌を出している童女の仕草が可愛らしい。
温まった表皮に冷たいものが触れた時の反応は、即座で勢いのあるものであることが多い(もちろん人によるが)。そのスピード感を表現している部分は、促音を使った「ひっこむ」なのでは無いだろうか。また、句のスピード感をより強めたいのであれば「雪片をうけて」ではなく「雪片に」にして簡潔にした方が良いのかもしれないが、あえて冗長に書く事によって、ゆっくり落ちる雪のひとかけらと、それが当たって即座に引っ込んだ舌の速度の対比が表れている。
70回 横井来季
水を打つ夢の餘白は樹々の閒に/馬場駿吉『耳海岸』
夢の餘白とは、夢の世界から現実へ漏れ出し、樹々の閒で漂っているものだろう。打水はおそらく大体昼に行うものだが、その夢の中では現れなかった空白(夢は、視点以外の物の存在は不確実である。現実では、扉を開けば扉の外の世界が現れるが、夢では扉を開いても、扉の外が完全な無・空白であることもあり得る。そうした意味での空白と解釈した)が餘白として樹々の閒に、月光に照らされることで立ち現れ、漂っている(閒という表記にそれを思わせる)。水を打つ、という言葉が終止形か連体形かで解釈が分かれるだろうが、終止形なら「打水や」とすればよりよくまとまる(そうなれば取り合わせとなる)ので、連体形だろう。打ち水をしたのが、現実の中なのか、夢の中なのか、ということを曖昧にさせるため、はっきりとは切らない方が良い、という判断もあってのことだろうが。
71回 日向美菜
寝返れば胎児揺らめく秋時雨/『笑ふ』江渡華子(2015)
母親のお腹の中の胎児は、まだ姿が定まっていない。その不思議な状態を「揺らめく」という詩的な言葉で表している。秋時雨の冷たい光に共鳴するように、胎児は形を持たずして揺らめく。胎内のぼんやりとした光の感覚も連想されるようである。また、母親の意識が柔らかく胎児に向けられていることが「寝返れば」から分かる。どんな時でも胎児の存在が近くにあり、その存在を「揺らめく」と感じる優しさが、この句を揺らがないものとさせている。美しさの中に、「胎児」の本質や母親の優しさが見えてくる句。
72回 八木大和
ウミユリの化石洗ひぬ山清水/辻颯太郎
「ウミユリ」はヒトデやウニと同じような棘皮動物。深海に棲んでおり、生きている化石としても有名。(Wikipedia抜粋)
句の形・季語のつけ方、どちらも平明ではあるが、「ウミユリ」に対する想いや詩情がとても大きい。ウミユリの化石を山で見つけた時の感動を落ち着かせながら清水で優しく洗っていく様子は幼さが際立つ、しかしカンブリア紀と現代を繫ぐウミユリの化石には尊さが宿る。コロナ禍において、救いの光のような句である。第24回俳句甲子園最優秀句。
73回 山田祥雲
折檻の我口吃るきりヾヽす/関萍雨『ホトトギス雑詠選集』
誰かを叱っているとき、必ずしも自分が正しく完璧であるとは限らないでしょう。ただ叱る相手に弱みを見せてしまえば自分の怒りが伝わらなかったりそこにきりぎりすの声が差し込んでくると、途端に叱る叱られるの関係からフラットに戻るような、あるいは正しさの揺らぐ叱る側が滑稽に見えるような感覚がありました。上手過ぎんか?と思った句です。
74回 中川多聞
女の子坐つて泣けり雛の前/加藤三七子
象徴的な俳句である。現代では女の子のお祭りと認識されている雛の前で、主役であるはずの女の子が座って泣いているのだ。嬉し泣きなのか悲し泣きなのかは鑑賞をする人の感覚によるだろう。雛祭りという催しが楽しくて思わず泣いてしまったのか、それとも、雛人形の前で女として生まれたことを嫌が応にも意識させられ、悔しくて泣いているのか、多様な読み方ができる。
75回 横井来季
鉄屑の中に芽吹く木女工の唄 寺山修司『寺山修司俳句全集 増補改訂版<全一巻>』あんず堂
寂れた工場を想像した。この木は、工程の途中で加工に失敗するなどし、捨てられたものだろう。鉄屑と一緒にゴミとして集められている。しかし、木は、僅かに残っていた養分を振り絞り、木の芽を芽吹かせる。この句は、工場に利用された木という自然物が再生をするという句である。もちろん、この句において女工の唄は単なるBGMではない。寺山の戯曲に、「お母さん、もういちど僕を妊娠してください!」という台詞があるが、それを考えると、この唄は、芽吹いた木に対して祝福を与えているだけでなく、この木の再生をもたらしているものでもあるように思われる。そして、その命の再生をもたらす女性が、木と同じ自然側ではなく、あくまで女工、工場側の立場にいる存在だというところに、作家性と屈折した感覚を感じ取った。
76回 日向美菜
蜜厚く大学芋や胡麻うごく/榮猿丸『点滅』(2013)
てらてらとした蜜が厚く大学芋にかかっているというだけでも面白い発見であるが、この句は下五でさらに詳しく大学芋を描写している。中七までに大学芋全体を見せ、そこからさらにぐっと焦点が絞られていくところが徹底した観察で面白い。さらに、「うごく」と最後にのみ動きを見せている。そうすることで上五に戻りまた蜜が見えてくるのである。鋭い観察であるのに飄々とした余裕が見えるのは、中七の切れ字と下五の落とし方の効果であるように思う。
77回 八木大和
夕暮の長き若布を洗ひけり 佐藤文香『海藻標本』
風紋の上引きずりし若布干す/阿波野青畝を思う。夕暮れを引きずってきた長い若布を丁寧に洗っていく美しさがある。
夕暮れの時間の長さと若布のものの長さ、夕暮れの光と若布の艶、など句にぴったりを合っている。夕暮れは抒情の引き出しやすい語彙としてよく使われがちだが、ここの夕暮れは動かない。
78回 山田祥雲
棒稲架の先余りたる日和かな/蓬田紀恵子 『黒き蝶』(2019)
棒稲架の先というのは組み木に掛ける部分とその先ということでしょうか。先の余っていることに目が行っているので、不作ではないでしょう。よく収穫されているはずです。これが先にも稲のかけられているようでは、収穫量はあるんでしょうが余裕がなく、上五中七にも、下五の日和の気分にも合いません。
稲架の余裕や日和の空気感が今年の収穫をさらに豊かに見せます。
79回 中川多聞
薔薇の園少女パレットあけずじまひ/津田清子
上五を読んだ者の眼前に薔薇が広がる。にも関わらず、句中の少女はまるで読者をからかうかのように、パレットを開けずに帰ってしまう。わざわざ薔薇の園にパレットを持ってきたのは自分で、それを使わなかったら骨折り損をするのも自分であるのに、それでも少女は読者をからかう。「こんなに美しい薔薇を見て、眼の前にパレットがあったら、描きたくなるはずだ」と言う、芸術家らしい感性にNOを突きつける。時には自らの感覚を尺度にして、価値あるものを嫌ってのける……そうした少女の一面が、この句に現れているのでは無いか。
80回 横井来季
阿波踊この世の空気天へ押す/岡田一実『記憶における沼とその他の在所』
一目で、「天へ押す」というウィットに富んだ把握が、句の強度を支えているとわかるが、他の点を言えば、「この世」という単語がポイントだ。「天」へ押すという言葉によって、阿波踊りがこの世と天(あの世)とを交信させる、厳粛な儀式のように見えてくる。実際、あまり意識されないが、阿波踊・盆踊は、本来先祖を供養するための儀式である。この句は、現代の、娯楽としての阿波踊りの景の中から、先祖供養の儀式という、阿波踊り元来の姿を見出したものだと言える。
81回 八木大和
鵙の贄天にちひさき五指ひらく/成田一子『トマトの花』
2021年10月1日に出版された句集の一句。インターネット・SNSでもたくさんの句が引用されているが、中でも引用が少ない良句を選んだ。
まず、この句は単なる「生死の取り合わせ俳句」ではない、ということを先に明示したい。微妙にされた餌と同時に、空という空間を見せる。よって鵙の贄から天への描写がスムーズに行われる。それから鵙の贄の指と人間の指の対比である。贄にされた動物の指は、相当グロテスクではあるが、生死のメッセージ性を強く持つ。それと同時に天にひらかれた五指が素晴らしく尊く感じる。そして季語の選択。生老病死は俳句でも詠まれがちで死に関わる季語も無数にある。ぱっと思いつくだけでも「盂蘭盆会」「茄子の馬」「子規忌」「虚子忌」「狩り」「枯」など、多種多様である。その中から「鵙の贄」を選んでくる作者の審美眼にはとても驚いた。
改めて俳句の良さを感じられる良句であった。
82回 山田祥雲
木々の間に紅葉のいろのかたまれる/長谷川素逝『暦日』
一瞬で景が浮かぶというか見たことあるし、なんなら詠もうと思ったことのある景なんですが既出でしたね。こうした景には自然の不規則性が見えて、これだけでも僕などは面白く感じるんですが、その他にもこの句では「偏れる」とかではなく「かたまれる」としたことや、「いろのかたまれる」と平仮名に開いたことで紅葉のいろ自体に何か意思があるような気がしてしまいます。景がすぐ浮かぶだけに、上五の木々も暗く、ちょっと冷え冷えと見えてくるので、季節を考えても、早い紅葉も自分たちからかたまっていそうです。自然の不規則性が情にて解釈されると愛せそうな気がしてくるんですが、その上に、そう捉えた詠者の姿も伺えるのか…?伺えそうかもなとも思いました。
83回 中川多聞
透明な少女の時間花ミモザ 白沢良子
少女の時間を「透明」と形容した句。少女の時間というのは思春期だと解釈できるのだろうか。もしそうだとしたら、思春期はなぜ透明なのか。他者の個性という色に染まりやすいという点で透明なのか、それとも、希望や善という光を反射したり、屈折させてみせるという意味で透明なのか。
少女の時間を彩るミモザの花は、少女の時間の複雑さをものともせず、黄色く咲き誇っている。
84回 横井来季
女去るグラスに火蛾の翅のこる/火原翔『塚本邦雄全歌集 第一巻』短歌研究社
全体からレトロな雰囲気が漂っている句。中村文則の小説に出てくるようなバーを想像した。この去った女が殺した蛾を擦りつけたのか、グラスには翅だけが残っている。派手な技巧が使われていない、シンプルな句である。きっとこの火蛾は電灯に光るグラスを灯りと思って近寄ってきたのだろう。そして、女は眉ひとつ動かさずその蛾を指で潰し殺したのだ。
85回 日向美菜
夕焚火見てゐる人が窓のなか/上田信治『リボン』
焚火を見ている人を作者は窓越しに見ていて、その静かな目線は時間を映す。「見てゐる」にはゆったりとした時間が流れ、夕暮れの焚火から夜の焚火に変わっていくひとときの穏やかさが伝わってくる。そして、窓越しに「人」を描写することで、焚火の暖かさと窓の冷たさの対比が鮮やかに現れる。また、作者は家の中からその人を見ているのかもしれない。そう考えると、遠くに焚火があるのにも関わらず、静けさがより強調されるのである。
86回 山田祥雲
幸せか布団から足が出てゐる/加藤静夫『中略』
薄いせんべい布団でも、もこもこの羽毛布団でも面白く読めると思います。僕などは足冷たそうだなと思ってしまいましたが、「幸せか」と言ってのけたことで目は覚めていても布団に包まってて良い朝の時間が思われました。冬の朝の寒さと、だからこその布団の暖かさその中にいていい時間といったことが、詠者に足りている幸せとはまた少し違う、持て余すことの幸せを思わせたのではないでしょうか。
87回 横井来季
最後まで売られて来て死斑がしずかに蝕んでゆく/横山林二
『日本プロレタリア文学集・40 プロレタリア短歌・俳句・川柳集』新日本出版社p260
この句は、「解剖」と題された連作の中の一句。『俳句生活』の1936年7月号に発表された。前後にはそれぞれ<酒精槽の中の金にされた死顔が笑ってはいない><生活の重圧が解剖台に死体を売って来ている>といった句が並んでいる。満州事変の際に、「お前が死んだ後に国から下りる金が欲しいから、生きて帰っては承知しない」といった趣旨の手紙が、家族から届いた兵士もいたという(末松太平『私の昭和史』中公文庫(上)p143)が、命ばかりか、それが抜けた身体も売られてしまうことへの心情が、売られて「来て」という受動的な語と、「死斑がしずかに蝕んでゆく」という淡々とした描写に現れている。売られた死体への哀れみと、売らざるを得ない現状への憤懣、その現状に慣れた鈍化した感情とが同居しているように感じられた。
88回 中川多聞
鈴虫に少女の祈り篤きかな/甘利啓子
あまり信仰の対象になることのない鈴虫への祈りであるからこそ意味がある。
これがもし「白馬に」などであれば、この句は宗教的なコンテクスト上にあるのありきたりな句であっただろう。しかし、鈴虫に祈る少女を描くことで、この少女の置かれた状況、物語を幅広く想起することができる。
89回 八木大和
枝豆に沸く宇宙論俳句論/櫛部天思『天心』
俳句に関する物事を俳句にするということにタブー視されている人もいるであろう。ただ、自分は俳句が大好きだから俳句の事もたくさん詠みたい、と思い続けているのは櫛部天思の影響があると考える。心から俳句を愛している師の姿に一歩でも及ぶことができればどれだけ幸せか。枝豆を鞘から口へぷつぷつ運びながら(お酒も飲める歳になればお酒も欲しいところ)、いつまでも俳句の話をしたい人生であり続けたいと願う。
p.s. 鞘→莢でした!
90回 山田祥雲
すごろくのまた転職に止まる駒/西山ゆりこ『ゴールデンウイーク』
人生ゲームか。出目だけで進んでいくなんて実際の人生を考えると無責任で良いなぁとも思うが、この句のように何度も転職のマスに止まられると自分の人生にひきつけてしまうものなんだろう。
運命は転職しろと言っているのか…?
駒を読むことで客観的な句になっているような印象を受けたが、そうした客観性が、すごろくを自分の人生に引きつけてしまったときの少しの緊張感にもつながる。
あくまで遊戯のすごろくでも、転職するかしないかの選択には責任が伴うのかもしれない。
91回 横井来季
いちまいの蒲団の裏の枯野かな/齋藤愼爾『齋藤愼爾全句集』
毛布を取り出すのが億劫で、冬になっても、薄い蒲団のままにしている。詠者は、ふっくらとした毛布布団ではなく、むしろ、膨らみのない薄い蒲団にこそ、何かが隠されているような感じがしたのだろう。それを、「裏の枯野」という言葉で表現している。蒲団は、睡眠という最大の休息を与えてくれるものであるが、この句の蒲団は、逆に寒々しさや妖しさを感じさせてくれる。
92回 夜行
スキーリフト夜はなにものとすれちがふ/板倉ケンタ
「手さぐり」『俳句 2018年1月号』
平明なことばで構成されている掲句は一読したときに共感しやすい。作者の独り言のようなこの句に、言われてみれば確かに、とまず思う。次に読者は「なにもの」の正体を想像する。
「なにもの」を考え始めると、「すれちがふ」の空間性によってスキーリフトの周辺へ想像が広がる。一面の雪や夜の暗さ、静けさが連想される。作者の素朴な呟きに共感し、その呟きに面白く付きあっているうちに、夜のスキー場の景が完成してゆく。
主観の写生というのか、作者の発想がそのまま差し出された句であるが、だからこそ読みの世界に引き込まれる。「なにもの」という謎をいつのまにか手渡された読者は想像を掻き立てるほかない。魅力的で巧みな一句だ。
93回 山田祥雲
盆梅に日がな日当たる二階かな/今城余白『聴秋』
この句集の中でも一番好きな句。盆梅も二階の高さも梅にとっては不自然なものですが、それによって一日中日を浴びることができます。何にも邪魔されず日がな日を浴びる方角や高さは天然の梅には選べないところだよなぁと思うと、そんな二階を持っていて、盆梅に浴びさせてやれることへのめでたさも見えてくるように思われます。
特に中七下五ですがiとaのリズムもめちゃ気持ち良いです。
94回 中川多聞
少年は少女の瑕瑾青芒/齋藤愼爾
これはあくまで私の主観だが、私がこの句を見た時、少年と
少女が出会ってしまった景を想像した。「少女の傷」そのものと大胆に隠喩される程に、少女を傷つけてしまった少年と、傷つけられた少女の経緯、心情が、触れるものを傷つけるほど水水しい青芒に寄って言葉を使わずに述べられている。
95回 横井来季
じやがいもと蛸の格闘太古より/竹岡一郎『けものの笛』
まず、「じゃがいもと蛸の格闘」というフレーズが面白い。じゃがいもの窪みは蛸に絞めつけられたものと考えられるが、じゃがいもは蛸にどのような反撃をするのだろう。一方的に絞められ続けているのだろうか。じゃがいもにはどこか呪術的な印象があるから、呪いをかけているのかもしれない。だから、現在の蛸は赤い身体の中に墨を溜め、吸盤のついた八つの足を持つ、不可思議な生物になった、というように考えられる。そして、下五の「太古より」によって、じゃがいもと蛸の進化の過程と、その結果である、現在のじゃがいもと蛸の不可思議さという要素をつけ加えている。
96回 八木大和
まだパジャマ紫陽花が野菜みたいで/佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』
佐藤句の良さとは、ずばり、この明るさである。水彩画の如きみずみずしさである。極限まで人間味が排された、神野紗希とも木田智美とも違う、美しさである。
取り上げた句の中では、「紫陽花が野菜のようである」という比喩の明るさが一番効いていると感じる。ここでの「野菜」は、レタスやキャベツを想像して欲しい。梅雨どきの暗さをかき消すほどの野菜の明るさが広がる。雨が上がって、晴れ間が見えているところまで読めてしまう。
陽光が自分と紫陽花の空間に満ちている。「まだパジャマ」でも許される。今から遅めの朝ごはんだろうか。レタスを明るくちぎって皿に盛ってゆく。
97回 山田祥雲
眺めやる魞挿す舟とわかるまで/池内たけし『赤のまんま』
上五の「眺めやる」がとても良い仕事をしていると思います。視界に入ってきた一艘の舟を、おそらく他に何も視界の中で動いているような興味を引くようなものがなかったんでしょうが、それが魞を挿すまで見届けるという駘蕩とした春の時間の流れが上五での切れや「やる」という補助動詞からも見えてきました。「眺めけり」などではないことからも、なんとはなしの眺めであることがわかります。
98回 中川多聞
麦刈りやハモニカへ幼女の肺活量/西東三鬼
一見すると、北原白秋の「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」を思い浮かべる句であるが、題材が似ているだけで、この句には白秋の歌とは異なる魅力がある。白秋の歌は短歌の五七五七七の音韻をしっかりと踏んでいるのに対し、三鬼の句は、中七と下五のリズムを大胆に崩している。また、白秋の句は、今日を生きた証であるかのようにハモニカを吹く「病める児」の、心許ない生命力が表現されているのに対し、三鬼の句は、ハモニカへ息ではなく「肺活量」を丸ごと吹き込む、命の激しさ、幼女の活力が表現されている。前述した大胆な字余りによって、幼女の息の量が通常ハモニカに吹かれるそれよりも大きいことが読み取れる。
99回 横井来季
運命とかではなくただ夏のさよなら/子伯『落とし物だらけの人生』
「夏のさよなら」という言葉には、どうしても叙情性・物語性が滲み出てくるが、それを受け入れるわけでも、完全に拒絶するわけでもなく、「運命とかではなくて」と受け流す、その軽みを魅力的に感じた。韻律も、「さよなら」でスパッと切れて快い。運命でもないのだから、きっとこの別れは後腐れのないものになるだろう。
100回 八木大和
老鶴の天を忘れて水溫む/飯田蛇笏『家郷の霧』
蛇笏の美しさは極めて重層的だと思う。その重層さは鑑賞文が意外と書きにくいことに繋がっている。俳句は決して論理のみで構成されているものではない、と改めて思い知る。一つ一つ紐解いて書いていきたい。
「老鶴の天を忘れて」は読み方が何通りかあるように思うが、老いが進んでいることで、もう元気に飛べない鶴がそこにいると解釈した。空を飛ぶ快さや爽やかさを忘れてしまった鶴は、とてもさみしく見えてくる。しかしそこに、その老を労う如くに、温んだ水が流れてゆき、足を浸す。この「天を忘れて」の書きぶりがしっとりした叙情を生み出している。
今回、角川ソフィア文庫から出ている『飯田蛇笏全句集』ではなく、角川書店の『家郷の霧』から引用した。全句集を買ってそれで終わりでも良いが、元の本を読んでみると、また違う味わいが生まれてくる。古い句集を見つけたら是非一度買ってほしいと思う。