映画「花束みたいな恋をした」の脚本を分析する
小説を「刺身」、
映画を「寿司」に例えるとする。
その場合、小説を映画化するにはまずシャリを作らなければならない。そして寿司を握る技術はもちろん、刺身への味付けも必要になる。
逆にノベライズ化する場合も同様で、シャリは不要になるし、刺身の切り方や盛り付け方など、「刺身」のスタイルにあった手直しが求められる。
「花束みたいな恋をした」を観たときに、何かに似ていると思った。
しばらくモヤモヤと考えていたが、
ある時ふと正体がわかった。
回転寿司屋のメニューにある、シャリを残す人向けに作られた「シャリのない寿司」だ。
それがこの映画に似ている。
一見「刺身」に思えてならないが、
ジャンルとしては「寿司」らしい。
この摩訶不思議な食べ物に「花束みたいな恋をした」と通じるものを僕は感じた。
脚本を担当したのは数々のテレビドラマを世に送り出した坂元裕二。
以下「シャリのない寿司」とはいかなるものかを含め、脚本的に気になった点をいくつか箇条書きにしていく。
※ネタバレあり
小説的なストーリー
映画を見終わってまず思ったのが、
小説的な映画だな、ということ。
具体的には、
・麦と絹の5年に渡る歳月を描いている点
・モノローグによる心理描写を多用している点
が小説的な要素として挙げられる。
映画のセオリーを考えたとき、ドラマとは凝縮省略するものであって5年という長さを2時間で描くのは基本的にはありえない。
あるいは、映画が映像で表現する媒体である以上、モノローグ(心の声)による手法は観客を白けさせる要因になりえる。
これらの点からわかるように、「花束みたいな恋をした」は内容、表現ともに小説的で、
あえて映画に拘ることはなく「(心理描写が巧いのだから)素直に小説の媒体で発表すればいいのに」と僕は思った。
では、この作品が仮に小説だったとして、
今度はそれを映画化するとどうなるのか。
前述したセオリーに従って、
モノローグを排除し、あるいは凝縮と省略の技術をもって時間軸を削り、映像と展開に重きを置いた映画的なストーリーが生まれるはずだ。
こうやって考えると、
実際の映画は、小説と映画のどっちつかずの作品で、
じゃあ、何なんだとなれば、
冒頭にあげた「シャリのない寿司」という例えがしっくりくる。
限りなく「刺身」のような「寿司」。
食べ物として意味がわからないので、「だったら刺身でいい」と思ってしまう。
もちろん反論はあるだろう。
「小説的な要素(モノローグ等)が傷になっておらず、映画としてきちんと成立している点がこの作品のすごさ」という意見があると思うし、それは別に否定しないのだが、
「刺身のような寿司を生み出すのに成功したこと」がこの作品の売りだとして、
その功績にどんな価値があるのか僕にはよくわからず、やっぱり「刺身でいい」と突っ込みを入れたくなってしまう。
ムラのあるリアリティ
この映画のレビューを眺めていると、「リアリティがある」と「リアリティがない」、の二つに意見が分かれていた。
僕は、どちらの意見も正しいと思っていて、この映画はリアリティがあるが、時々その精度が荒くなる、が正解だと思う。
この作品は全体的にきめ細かい精度を保ったままストーリーが展開されるので、それゆえ所々でたかが外れるとその都度リアリティのムラが目立ってしまう。
具体的には(全体と比較して)序盤はリアリティが欠けていると思う。
冒頭の10分くらいだろうか。坂元さんはキャラの書き分けができない人なのかなの思って見ていたが、
当然そんなわけもなく、この話は似た者同士によるラブストーリーであるとわかった。
この似たもの同士の描写に関して、余りにも偶然の一致が多く、この辺りはやや苦しい。
終電を逃した二人が出会うシーンもリアリティがない。
トイレットペーパーを落としてからの、Suicaのチャージ切れ、とどめは見知らぬ男女に話しかけられるといった具合で、リアリティよりもまず表現としての往生際の悪さが目についてしまい、
無理にリアリティを醸し出そうとしていることが逆効果になっている。
ちなみに坂元さんが苦戦していることからもわかるように、「運命の出会い」を描くことは思いの外難しい。
真に優れた書き手は、
空から女の子が降ってきた(天空の城ラピュタ)
のように一発で仕留める。
序盤こそ難があるものの、
それ以降はリアリティがあった。
特に倦怠期でのケンカのシーンと、
喧嘩腰でのプロポーズのシーンは圧巻。
息を呑むようなリアリティをそこに感じた。
ただし一点だけ。
ストーリー後半の、積み荷を海に捨てたトラックの運転手の発言。
「自分は労働者じゃない」
犯行動機でそんなセリフを吐くトラックの運転手はいない(と思う)。
それまでセリフやキャラを含めきめ細かい画素数(HD)を維持していたのに、トラックの運転手のキャラだけYouTubeでいう144pの画質になっていた。
陰キャ側の世界を生きる一人として、
そこは気になった。
連発される固有名詞
この映画には実在する固有名詞がやたら登場する。
作家の名前、本の名前、駅名、地域名、飲食店、ゲーム、などなど。
こうも固有名詞を連発されては萎えてしまった人も少なからずいるのではないだろうか。
固有名詞を出すメリットとしては、
観客から共感を得られるという点がある。
僕はこの作品の舞台になっている調布の近くに住んでいるので、
明大前だの、パルコだの、多摩川だの、府中の栗林だの、
聞き慣れた名前や慣れ親しんだ風景が作中の折々に出てきたので、それだけで興味深く見ることができた。
しかし、もしこれが知らない場所だったら、
見知らぬ駅名や店の名前を連発する男女の日常に対して、そこまで関心が続かなかったと思う。
現にハンバーグチェーン店の「さわやか」を自分は知らなかったので、作中で名前を出される度に「もういいよ」と思って見ていた。
この点が固有名詞のデメリットで、
その固有名詞に馴染みのない人間は置いてけぼりを食らい、鼻白んでしまう。
共感とストーリーの面白さとは基本的には無関係で、
もし仮に作中に登場するのが「さわやか」ではなく(僕の好きな)「天下一品」だったら、「おっ」とテンションが上がる。
菅田くんが幸せそうな顔で「こってり」を啜ろうものなら、それだけで名作だ。
しかし、それはあくまで共感による楽しさであって、ストーリーの面白さというのは、
観客の予備知識に頼ることなく、
作中で示される情報のみで楽しめるところにあると思っている。
その意味で固有名詞は共感を得られる一方で、ストーリーにとってはノイズでしかないので、
その辺りがこの作品に対する賛否両論の一つの原因になっていると思われる。
効果ゼロのオーバーラップ
脚本のテクニックの一つに「オーバーラップ」というものがある。(僕がそう呼んでいるだけで、正式な用語名は不明)
同じ(もしくは類似した)セリフやシーンを重ね掛けする手法で、伏線の一種。
例えば「七人の侍」では、百姓の「おら、ちゃんと見てただよ」というセリフが作中で都合二回使われる。
米を盗まれたときに「おら、ちゃんと見てただよ」と弁解するセリフがまずあって、後半、野武士に柵を破られたときに同じセリフを吐いて死ぬ。
セリフを重ね掛けすることで、
シーンを印象づけるテクニックだ。
「花束みたいな恋をした」でもこのオーバーラップが使われている。
例えば、麦と絹がブラジル大敗について会話を交わすシーンが二回出てくるが、
この二つの会話のうち、二回目の会話はストーリーの表面に張り付けたいわばコピペのようなもので、
展開上の必然に基づいて描かれているわけではないため、オーバーラップの効果が不発に終わってしまっている。
(例に出した「七人の侍」の場合は、展開の中にセリフが組み込まれている)
セオリー通りに描かれているシーンも一応あって、ピクニックの本を引き合いに出して会話するシーンがそうだが、
(リアリティとの兼ね合いのせいか)会話が不自然で、リアリティを犠牲にしてまで重ね掛けをするようなシーンではない。
このようにおそらく坂元さんはオーバーラップの使い方が下手なんだと思う。
それを象徴するのがストリートビューのシーンで、
ストリートビューに映って盛り上がるシーンは面白いとして、そのシーンをわざわざ重ね掛ける意味がわからない。
オチを作りたかった、くらいしか理由が思いつかないが、いうまでもなくとってつけたようなオチに効果はない。
クライマックスが回想シーン
終盤、麦と絹が別れを切り出すシーンで、かつての自分たちによく似た若いカップルが出てくる。
このシーンをもって、坂元さんは構造とか展開でストーリーを語れない人なんだなと思った。
若者を登場させた意図としては、(おそらく)「あの頃には戻れない」という情感を表現したかったものと読み取れるが、
麦と絹のかつての関係を再現した若者のやり取りは、事実上の回想シーンで、
もし脚本教室で、ここ一番の見せ場に回想シーンを使おうものなら講師に叱られることは必至だろう。
想像してもらいたい。
映画「タイタニック」のラスト。
凍死したジャックを海に沈めるシーン。
沈みゆく中で、あんなシーンや、こんなシーン、ローズとジャックの思い出が回想シーンとして蘇る。
そんな安易な表現をされたら泣けるものも泣けなくなってしまう。
この「花束みたいな恋をした」はそういう愚を犯している。
このシーンについて、恋愛経験の有無で「泣ける」かどうか決まるとのレビューを見かけたが、
今説明したように「泣けない」のは書き手の表現不足(=ストーリー構造が作れていない)が原因なのは明らかで、
恋愛に限らず「あの頃には戻れない」という気持ちは誰しもが一度は持ったことがあるはずで、そうである以上、表現さえ優れていれば万人に伝わる。
(男女による別れ話はあくまでモチーフであり、本質は「あの頃には戻れない」という点にある)
このシーンも固有名詞による共感と似たようなもので、ストーリーとしての表現が欠落しているために、
恋愛経験のある人だけが共感できる、わかる人しかわからないシーンに成り下がってしまった。
天下一品のセリフ回し
ここまで散々批判してきたが、
この作品には優れた点もある。
すでに言及しているが、鋭い心理描写、全体的なディテールの精度、穿ったセリフ回し、それらを駆使した細かいネタの数々。
冒頭のイヤホン半分こに対するエッジの利いたセリフ回しから始まって、ジャンケン、バタートースト、ストリートビュー、カラオケ屋、帽子のツバ、LINEのイラスト屋、などなど、
次から次へとよくあそこまで芸の細かいネタを繰り出せるものだなと感心した。(しかも最後まで息切れしていない)
(いち脚本志望者として)坂元さんのセリフのセンスには目を見張るものがあった。
前述した倦怠期のケンカのシーン。
あるいは、プロポーズのシーン。
書き手の感性に加えて経験値と観察眼によって形成された面白さで、高い見識を身に付けた人間でないとこういうシーンは書けないと思う。
結局、この作品は、ストーリーが小説的であること、映画としての構造や表現の弱さなど、これまでに僕が指摘してきた欠点をセリフによってカバーしている。
セリフだけで持っている作品、といえるし、セリフだけで戦えている作品、ともいえるかもしれない。
冒頭で「刺身」と「寿司」に例えたが、
この映画から感じるのはひたすら「板前」の技術であって、「寿司」のみを専門に扱う「寿司職人」のそれではない。
坂元さん曰く、これまで映画の脚本を書いてこなかったのは「映画脚本は苦手だから」だという。
その通りだと思う。
坂元さんが映画脚本に不向きなのは残念ながら本当だ。(どちらかというと小説家に向いている気がする)
しかし、現実はどうだろう。
映画脚本に不向きな人によって作られた、およそ映画的と呼ぶには程遠い作品が皮肉にも大ヒットを記録した。
つくづく映画とはわからないものだと、そう考えさせられる一本だった。
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