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「100日間生きたワニ」の脚本を分析する

「100日後に死ぬワニ」の映画化を知ったときは無茶だと思った。

多くの方が指摘している通り、原作の漫画はTwitterだから成功した作品だ。

ワニが死ぬまでをリアルタイムで追っていくところに作品の醍醐味があるのであって、あれを本で読んでもイマイチだ。

例えば「100日後に死ぬワニ」と似たような構造を持った作品に「ブレアウィッチプロジェクト」がある。

消息不明の学生が撮影した映像を制作陣が入手したという設定のモキュメンタリー映画で、映像のリアリティを裏付けるためのプロモーションをネット上で行うことでヒットした作品だが、あくまでプロモーションありきで、映画そのものだけを見ても面白くない。

両者に共通するのは作品の中身が外的な部分(媒体またはプロモーション)に依存している点で、中身だけでは片手落ちになってしまうところだ。

つまり「100日後に死ぬワニ」の映画化とは「ブレアウィッチプロジェクト」の映像だけをくり抜いて客に売るようなもので、少しでも目の肥えた人間であれば、それがどんな結果になるのかは容易に想像がつく。

僕は100ワニというよりは、この無理難題を課せられた監督(脚本家)がどう立ち向かったのかに興味があったので映画「100日間生きたワニ」を観てきた。

脚本を担当したのは「カメ止め」でお馴染みの上田監督と、ふくだみゆき監督。 

前置きが長くなったが、以下ほとんど脚本論を中心に映画の感想を書いていきます。

※ネタバレあり






映画ではファーストシーンでワニが死ぬ。

この冒頭をもって作り手が原作の持ち味に頼らず(あるいは頼れず)ストーリー作りに挑みにかかったことがわかる。

原作には前述した"媒体に依存した作品"という以外にもう一つ「主人公の日常に"死の補正"がかかっている」という特筆すべき点がある。

これによって何気ない日常が特別な意味を持ち、ストーリーにドラマ性が生まれる。

この"死の補正"だが、これを映画で取り入れるには当然形を変えなければならない。

Twitter漫画であれば欄外に「あと○○日」と書けば通じるかもしれないが(実際通じた)、映画の場合、テロップを入れたところで"死の補正"を観客は本気で受け止めない。

映画で"死の補正"を成立させるためにはアイデアが必要で、例えば"健康診断で異常なしの紙を渡されたが、病院側のミスであり、実は余命わずかだった"といった設定が考えられるが、補正として頼りない。

原作に匹敵する強い"死の補正"を生み出すとなると神がかりみたいなアイデアが降ってこない限りほとんど不可能だと思う。

ゆえに作り手は"死の補正"を諦め、補正がかからないのを承知の上で、気休め程度に「日常」シーンに意味を持たせようとして冒頭に「ワニの死」をもってきたであろうことが推測できる。

そして補正に頼れない以上、ファーストシーン以降は正攻法でドラマを書くのだと思った。

いわゆる、誰と誰が劇的に出会って、劇的な事件が起こって、劇的なエピソードがあって、激しい対立があったり、壁に立ちはだかったり、というやつだ。

もちろん原作との兼ね合いはあるから、「ダイハード」のようなコテコテの「非日常」とまではいかなくても、日常の中の特別な出来事を描いて、その一連の出来事を最終的に冒頭のワニの死に繋げることによって、原作のテーマである「日常はかけがえがない」を導き出すような話を作るのではないか。

そんな予想をしていたのだが、それは裏切られた。

ファーストシーン以降、そこに描かれていたのは紛れもない「日常」だったからだ。



この時点で一抹の不安に駆られた。

エンドロールまでこのまま延々と「日常」が続くという最悪のケースを想定したからだ。

繰り返すように原作と違って「日常」に補正がかかっていないので、そこに描かれているのは本当にただの「日常」だ。

映画において日常を描くということは、ドラマ的表現が極度に制限されているのも同然で、わずかに頼れるのはキャラクターとセリフになる。

セリフ回しはうまい気がしたが、ワニたちに起こるエピソードはそれこそ平凡で感情移入ができない。

ことあるごとに「死」のワードをちらつかせるのも少し嫌味な気さえした。

このまま終われば「駄作」の謗りは免れないだろう。いや「デビルマン以下」と呼ばれるかもしれない。

そんなことを考えていると、結末だとばかり思っていたワニの死が中盤で訪れる。

さらにカエルなる新キャラが登場し、話は一転し、ワニの死によって傷を負ったネズミたちの姿が描かれる。

ここまできてやっと作り手の意図が見えてきた。

作り手は原作のテーマである「日常のありがたみ」を描くつもりが最初からなく、原作の後日談を描こうとしている。

つまり脚本的には中盤(ワニの死後)からドラマが始まり、前半の日常パートは中盤以降のための長い前フリだったことになる。

少し話は逸れるが、だとするとほとんど意味のなさなかった冒頭シーンの「ワニの死」に脚本上の価値が出てくる。

映画で中盤以降の張りつめたシーンが冒頭で示される場合、「本題に入るまでは長いですが面白くなるので我慢してください」という作り手による観客への配慮であること多い。

例えば前フリの長い「バタフライエフェクト」がこの構成をとっている。

推測だが、作り手はおそらくそれを意図して冒頭でワニの死を見せたのではないか。



というわけで、この映画は前半を捨てて後半に賭けた構成をとっているといえる。

ここからやっとドラマが始まる。 

ドラマが始まるのが遅すぎると思われるかもしれないが、後半型の名作映画に「バベットの晩餐会」がある。

清貧なプロテスタントの姉妹に雇われた召使いが晩餐会を開くというストーリーで、あれも前半はおそろしく退屈だが、だからこそ後半が輝きを放つ。

(「カメ止め」も後半からの映画なので、この監督は前半低調なストーリーが好きなのかもしれない) 

「バベットの晩餐会」同様、後半からは鑑賞するに耐えるドラマがしっかりと展開されていたので、多くを語る必要はないだろう。

カエルのキャラクターは確かにウザいが、脚本上必要不可欠の存在なのでやむを得ない。

("いい奴であるワニとの対比"、"ネズミたちの再起へのきっかけ"、という二つの役割を背負っている)

カエルはウザいが(繰り返した)、原作の後日談であるところの"大切な人を失った仲間たちが再生するまでの物語"がドラマ的に見事に描かれていたと思う。

テーマについては、原作のテーマ「日常のありがたみ」こそ描かれていなかったものの、原作のその後を描くことによって「失われた日常は取り戻せる」という作り手の思いを描いたものだと僕は受け取った。

「100日後に死ぬワニ」が現在進行形でワニの死までを描いたのに対して「100日間生きたワニ」ではワニとの思い出と仲間たちの再生を描く。

タイトルが変わっているのもそういう意味なのだろう。



映画レビューを見渡すと辛辣な意見が多い。

もっともだと思う意見もあるし、映画の出来に対して僕にも不満がないわけではない。

しかし、原作の持ち味を根こそぎ奪われた状態のものを「面白くしてくれ」と言い渡された人間がどんなひらめきを見せるのかという意味で一見の価値がある脚本なのは確かだった。

その点では相当に健闘したのではないかと思う。

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