吉作落としに見る必然の美しさ
「吉作落とし」は、
大分県に伝わる民話であり、
断崖絶壁の岩棚にひとり取り残されてしまった男の悲劇を描いた物語です。
個人的には、
昔話(民話)の最高傑作であり、
たかが昔話のくせに、
なぜこれほど、
見るものを惹きつけ、
そして戦慄させるのか、
見返すたびに感じるのですが、
この話の洗練されたところの一つに、
ストーリーが偶然ではなく、
必然によって進んでいく点があります。
ストーリーの場合、
(偶然の多い)現実とは異なり、
発生する出来事は必然性を持っていなければならないのですが、
「吉作落とし」では、
その点が見事に守られているのです。
では、
具体的にストーリーにおける必然とは、
いったいどんなもので、
あるいは、
偶然だと何がダメなのか、
「吉作落とし」を取り上げ、
分析してまいりたいと思います。
1 シチュエーションの必然
序盤(日常パート)のあらすじは、
一人暮らしをする吉作が、
ひとり山へいき、
綱を片手に崖を降りて岩茸を採りはじめる、
というものです。
その後、
非日常パートの到来、
つまり、
崖の岩棚に取り残されてしまう、
極限状態のシチュエーションに吉作は陥るのですが、
そこに至るまでの流れを書くと、
岩茸を採っていると、
崖の途中に岩棚があることに気づく
↓
疲れた体を休めるため、
綱から手を離し、
岩棚に降りて休憩する
↓
一休みを終え、
綱を握ろうとする
そうしたところ、
先に引用したように、
状態になっており、
理由としては、
であり、
それがために、
吉作は崖の岩棚にひとり取り残されてしまうのです。
この一連の流れは、
厳格なロジックで繋がっており、
何ら偶然らしいところはありません。
たとえば、
本作と類似するシチュエーションを持ったストーリーに、
映画「フォール」がありますが、
(主人公がテレビ塔のてっぺんに取り残されてしまう)「フォール」の場合、
その理由というのが、
親友に誘われてテレビ塔に登ったはいいが、
テレビ塔が老朽化しており、
登っている最中に梯子に負荷がかかり、
てっぺんに着いたさいに、
梯子が壊れてしまったから、
というもので、
つまり、
取り残されたのは、
単なるアクシデント(偶然)によるものといえます。
「吉作落とし」に置き換えていえば、
崖で岩茸採りをしていたところ、
アクシデントで綱が切れてしまい、
岩棚に取り残されてしまう、
といった具合になるでしょう。
岩茸採りの最中、
負荷で綱が切れてしまった
↓
岩棚に落ちてしまい、
そこに取り残されてしまった
は因果関係こそありますが、
あくまで偶然によるものなので、
綱が切れた結果、
崖にしがみつくでもいいし、
別にそのまま崖から落ちて死んでしまってもいいわけで、
結果はいかようにも変えられます。
一方、
先に説明した通り、
(本来の)「吉作落とし」の場合は、
岩棚で一休みしていたところ、
体重で伸びていた綱が縮んでしまった
↓
綱が手が届かないところまであがってしまい、
岩棚に取り残されてしまった
という、
偶然に左右されることのない、
厳格なロジックに裏打ちされた、
(岩棚に取り残されてしまうことの)必然性があり、
その点が、
偶然頼みの「フォール」とは違うのです。
では、
「フォール」のように、
なぜ作中で偶然が起こるのかといえば、
当たり前ながら、
そこに作り手の都合があるからです。
「フォール」でいえば、
テレビ塔の上に主人公が取り残されるシチュエーションを作れないだろうか、
との作者の思惑がまずあって、
そこから後付けで、
その思惑を成立させる方法を考え出したであろうことが、
ストーリーから推測できます。
もちろん、
後付けで方法を考え出すことが悪いのではなく、
思惑が先でも、
方法が先でも、
手順はどうであれ、
方法に必然性さえあれば、
何も問題ないのですが、
一方で、
面白いシチュエーションを作りたい、
あるいはストーリーを盛り上げたい、
といった作者の思惑が優先され、
作中で偶然的な出来事が起きるのであれば、
ご都合主義の誹りは免れません。
そうした作者の都合が極端に先行したケースとして、
思い浮かぶのが、
小説の「方舟」です。
「方舟」では、
ある閉鎖空間の中、
誰かひとりを犠牲にすれば、
みんなが脱出できる、
というシチュエーションのもと、
ストーリーが進んでいくのですが、
ご都合主義の観点から見たとき、
ひとりが犠牲になればみんなが助かるシチュエーションを作りだしたい、
その都合のためだけに、
地下建築を非現実的な構造にしたり、
地震や水没などの偶然的な出来事を起こしており、
要は、
それ(シチュエーション)がやりたいから、
そういう設定にした、
にすぎません。
そうした作者本位の、
ご都合主義をもとに作られたシチュエーションの場合、
その後の展開がいくら面白くても、
そのシチュエーションに観客(読者)が乗れないために、
ストーリーが上滑りする危険があるといえます。
2 展開の必然
書きたかったことは、
先ほどの1であらかた書き終えてしまったので、
蛇足になるかもしれませんが、
本作では中盤においても、
必然が光っています。
岩棚にひとり取り残された吉作は、
大声をあげて助けを呼ぶこと以外、
なすすべがありませんが、
以下のように、
大声をあげて助けを呼ぶ
↓
岸壁にこだまして、
化け物のような声に変わる
↓
叫び声は山の近くを歩く人に届いたが、
化け物のような声だったため、
返って山へ近づく者がいなくなった
といった、
偶然を排したロジックが展開されており、
助けを求めても助からないことに、
必然性を感じます。
一方、
先述した「フォール」の場合も、
やはり高所から助けを求めるシーンがあり、
具体的にはどうなっているかというと、
テレビ塔にあった照明弾を撃って、
地上にいた男に助けを求める
↓
男が主人公に気づく
↓
男が犯罪者だったため、
主人公を助けることなく、
主人公の車を奪ってその場から去る
あるいは、
別のシーンでは、
ドローンを飛ばして、
助けを求める
↓
ドローンがトラックにぶつかってしまい、
失敗に終わる
といった感じであり、
「吉作落とし」の話に置き換えれば、
大声で助けを求める
↓
崖の上に男が現れる
↓
男は悪者だったから、
岩茸だけ奪われて、
助けてもらえなかった
みたいなことであり、
助かるか助からないか、
その結果については、
作者のさじ加減ひとつで、
いくらでも変えることができてしまうため、
そこに必然がないのです。
ちなみに、
少し話は外れますが、
助けを呼んだものの、
化け物の声に聞こえたため、
返って人が遠ざかった、
といったような、
良かれと思ってやったことが、
事態を悪化させてしまう現象を、
コブラ効果といいます。
脚本的には、
展開の妙とか、
展開の綾とか呼ばれるものであり、
いま触れた「吉作落とし」のシーンにしてもそうですが、
そうした展開は、
ストーリーを面白くする上で、
欠かせない存在といえます。
3 結末の必然
追い込まれた吉作は、
最終的に飛び降りを試み、
バッドエンドで物語は幕を閉じます。
吉作はなぜ飛び降りたか?
ですが、
何となくオチをつけたかったから、
とかなら、
再三説明した通り、
ご都合主義ですが、
本作では、
ここでも必然が威力を見せつけます。
吉作が飛び降りたのは、
助かると錯覚したからであり、
いわゆる「火事場の飛び降り」です。
引用の通り、
人は高所で追い詰められると、
地面が近く見える錯覚を見るようにできており、
吉作の飛び降りは、
人間心理に適っているのです。
一方、
「フォール」では、
主人公が最後の力を振り絞って助けを求め、
無事救出されるため、
「吉作落とし」と異なり、
ハッピーエンドの結末ですが、
主人公はなぜ力を出せたのか?
この部分に関しては、
必然性をもっているといえます。
こちらは「火事場の馬鹿力」です。
つまり、
作者がハッピーエンドにしたいから、
主人公が急にパワーアップしたわけではなく、
火事場の馬鹿力によって、
無事助かったわけです。
(とはいえ、
主人公がハゲワシの生肉を喰らったり、
死んだ親友の腸にスマホをねじ込んで、
塔から突き落としたり、
思わず笑ってしまうようなシーンではありましたが)
「吉作落とし」の分析は以上となります。
最後に少しだけ、
本作の教訓について触れますと、
本作の教訓は、
(山などの)危険地帯にいくときは、
必ず誰かに行き先を告げろ、
だと思います。
吉作は独り身であり、
誰にも行き先を告げなかったことが、
助からなかったことの、
真の原因のように思えるからです。
ほかの昔話や、
あるいは、
映画やテレビドラマを見ていると、
作者が何を言いたかったのかわからない、
曖昧なストーリーに出くわすことがありますが、
「吉作落とし」では、
優れたストーリーであることに加え、
教訓が明確に示されており、
その意味においても、
昔話の中では極めて稀な、
名作と呼ぶに相応しい作品かと思います。
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