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テーマがストーリーを滅ぼす

こともあるんだな、と先日「竜とそばかすの姫」を見て思った。

観客はテーマによって満足感を覚える。

描きたいテーマのない映画はタコの入っていないたこ焼きのようなものだ。

生地(ストーリー)だけでもそれなりに味わえるが、たこ焼きとしては不満が残る。

だからテーマは欠かせない。

冒頭にあげた「竜とそばかすの姫」にはテーマがあったといえるが、反対にストーリーがなかった。

それは生地のないたこ焼きのようなもので、たこ焼き屋にいってタコだけ出されたら驚かない人はいないだろう。

タコの入っていないたこ焼きと、
タコ。

どちらがマシかといわれれば、ほとんどの人が前者と答えるのではないだろうか。

(僕はタコだけであれば市場で新鮮なものを買うので、たこ焼き屋でわざわざ買わない)

前述したとおり、先日1800円を払ってたこ焼きを買ったらタコを出された。

悔しかったので「細田監督の作るたこ焼きのお粗末さ」を分析していこうと思う。

※ネタバレあり




映像や声優の出来は満点にも関わらず「竜とそばかすの姫」のストーリーに没入できない原因を考えたとき、

ストーリーのタッチが未熟、
キャラクターが描けていない、
展開が描けていない、
ストーリー構造がいびつ、
描きたいものを詰め込みすぎている、

など、細田監督がストーリーに不得手だということは間違いないけれど、

監督がテーマに拘りすぎた結果ストーリーが観念的になってしまっているところに一番の原因があるのだと思う。


映画を観た方ならわかるが、このストーリーには観客が理解できない点が多々ある。

ざっと思いついたものをあげると、

・なぜ母の死が鈴を突き動かすのか
・なぜ鈴と竜の仲が深まったのか
・なぜ鈴は竜を助けたいのか
・なぜ鈴が歌うだけで周りが感動するのか
・なぜ竜の父親は鈴を殴るのをやめたのか

通常ストーリーはキャラクターの行動に対して「なぜそれをするのか」という明確な根拠を示さなければならない。

根拠なく行動することはありえず、必ず観客の納得のいく動機や理由がある。

しかし先ほどあげたものはすべて、キャラクターの人間心理を無視した、作り手である監督の観念によって描かれている。


例えば、ストーリーの冒頭付近で描かれる母が死ぬシーン。

「危険を冒して子供を助けようとした」

この母の死因を鈴が引きずっていたからといって、「危険を冒して竜を助けにいく」鈴の行動の動機を描いたことにはならない。

これは「観客は回想を設定としか見なさない(本気で受けとめない)」という脚本上の原理に加えて、仮に受けとめたとしても、

今度は「遠い昔の出来事(母の死)が理由で人助けをしようとする人間がいるか?」という人間心理の部分で観客は首をかしげるからだ。

(つまり監督は二重の愚を犯して「鈴の竜を助ける行動理由」を描いている)


なぜそんな愚を犯したのか。

それは監督がテーマ先行でストーリーを書いているからで、

おそらく母の死のシーンの意図としては、

「危険を冒してまで見ず知らずの子供を助けるべきか」という問い(テーマ)を監督が観客へ示しているものと思われる。

(この問い自体がすごく伝わりづらいという問題もあるが、それは置いておく)

テーマ先行が悪いというわけではなく、問題はテーマを優先する余りストーリーが浮いてしまっていることだ。

先に書いた通り「なぜ鈴は竜を助けたいのか」に対して「鈴の行動理由」を描かなければ観客は納得しない。

「母の死に突き動かされた」は単なる理屈で、人間心理とはかけ離れている。

監督が少しでも地に足のついたストーリーを描こうと努力していれば、「鈴の行動理由」に説得力を持たせるシーンはいくらでも描けたはずだ。

それを放棄してテーマを優先した(あるいは拘った)結果、行動理由のまるでわからない、ゆえに感情移入できない主人公による、とりとめのないストーリーになってしまっている。


・なぜ鈴と竜の仲が深まったのか
・なぜ鈴が歌うだけで周りが感動するのか

この辺りのシーンもとにかく観念的で、
キャラクターの動機や理由、あるいは展開を描くことを監督が放棄している。

監督の中ではテーマや観念に基づいた根拠が各シーンにあるのだろうが、残念ながら表現として伝わらないのものを読み取ってあげられるほど人間ができていないので、

脚本として三流以下、
以外の感想が出てこない。



僕はこの作品を観てクリントイーストウッドの悪いところだけを真似しているな、と思った。

具体的には「パーフェクトワールド」に通じる観念臭さがある。

「パーフェクトワールド」はナヨナヨした少年が父性なる存在と出会って一皮向ける話で、個人的には好きなタイプの話なのだが、

まるで演説を聞いているかのような、テーマが剥き出しのまま語られていて、とてもじゃないが観ていられなかった。


「竜とそばかす」で特にイーストウッドっぽさを象徴しているなと思ったシーンは、

前述した問い「危険を冒してまで見ず知らずの子供を助けるべきか」に対する結論を描いた部分で、主人公と竜の父親が対峙するシーン。

・なぜ竜の父親は鈴を殴るのをやめたのか

その理由が作中で描かれておらず、
かろうじで読みとれるのは、鈴の流した「血」を竜の父親が見たから。

意味がわからないし、事実意味がない。

観客はただ面白いストーリーを見たいのであって、「血」が何の「メタファー」なのか、作り手の意図を優しく読み取ってあげるために1800円を払ったのではない。

メタファーに関して忘れられないのは、「アメリカンスナイパー」に満点を付けた映画評論家のレビュー。

以下一部引用。

具体的には、クリスが犬に殴り掛かるシーンに象徴されている。彼が殴ったのが狼でなく「番犬」だったことが、この映画に隠された最大のメタファーである。

番犬だったから何なのだろう。
殴ったのが猫でも山羊でもストーリーの価値が変わるとは思えない。

話を戻して、

再三書いているように、竜の父親が鈴を殴るのをやめるのであれば、その理由を明確に示さなければならない。

その納得のいく理由があって観客は心を震わすのであって、あのシーン、父親が意味不明すぎて僕は失笑した。

細田監督、脚本術の未熟さを棚にあげてメタファーに頼るのはやめましょう。



たこ焼きを例にあげて冒頭に書いたが、

テーマだけを語るのなら論文を発表すればいいので映画である必要がない。

映画である以上、ストーリーにきちんとテーマを落とし込まなければ、それはテーマを語ったことにはならない。

細田監督は脚本術が未熟なので、

「観念的なストーリーでテーマを描く」

という、テーマを伝える方法として考え得る限り最も効き目のない形をとってしまっている。

(ちなみに最も効果的な方法はクライマックスでの暗示。「キサラギ」や「セントオブウーマン」「リトルミスサンシャイン」なんかで使われている)

テーマはストーリーの中に収まって初めて価値が出るのであって、それがいかなるテーマであろうと(例え、ジャンケンではグーが強い、であろうと)、一定の価値があると僕は思っている。
(もちろんテーマは深いに越したことはないけれど)


とはいえテーマをストーリーに落とし込む技術は初心者には難しく、中級者以上の技術なので細田監督には早かった。

・テーマを持っていること
・脚本術が優れていること

の二点が必須で、監督の場合「脚本術が優れていること」がアウトだ。

ネットのインタビュー記事でテーマ云々を語るのもいいけれど、監督にはシナリオセンターへの受講をお勧めする。

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