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"タイトルが最後に出る映画"を脚本的に分析する

作中の最後にタイトルが出るパターンの映画を多く見かけるようになった。

有名どころでは「アバター」や「ダークナイト」だろうか。

最近観た「竜とそばかすの姫」もこのパターンを取っていた。

ほかにも、思いついた作品をあげれば、

「幕があがる」
「ゼログラビティ」
「ライオンキング」
「世界は今日から君のもの」
「バクマン。」

(もっとたくさんあるが思いつかない)


こうして作品を並べてみると、
何となくストーリーに共通点を感じる。

作り手は当然ながら脚本上の効果を狙った上でこのパターンを用いており、
流行りだからという理由でやっているわけではない。
(オシャレでやっている作品も少なからず存在してしまっているが)

タイトルをどこに持ってこようと変わらないストーリーであれば、あえてこのパターンを使う必要はなく、

そればかりか使用法を誤れば、例えば仮に「七人の侍」でタイトルを最後に出そうものなら、(侍が何人か死んでいるのに)土饅頭の映像に重なってタイトルがドーンと出る、

など、大惨事にもなり得る。

ではどうすれば有効性のあるものになるか、この記事ではその辺りを分析していきたい。

※映画のネタバレあり




先ほど書いたように「タイトルが最後に出る」ストーリーには共通点があると思うのだが、わかるだろうか。

僕は、

ラスト(エンドロール)の先に新たな景色が広がるタイプのストーリー、

だと思っている。

もう少し具体的に言い換えると、

① ある出来事の前夜を描いたストーリー
② 主人公が一歩を踏み出すストーリー

のどちらかのケースになっている。

①ある出来事の前夜を描いたストーリー、というのは、

ストーリーの全体像(作中で描かれていない部分も含む)を眺めたときに、始まりに相当する部分を切り取って描かれているストーリーを指す。

例えば「幕があがる」は演劇の本番を迎えるまでを描いた話で、本来ならメインパートになり得る本番シーンが始まると同時にストーリーが終わる。

「ライオンキング」では主人公のシンバが王の座につくまでの話が描かれており、シンバが王になると同時にストーリーが終わる。

二作品とも新たな展開を迎えた時点でエンドロールが流れる。

他にも、「アバター」は人間の主人公がナヴィに生まれ変わるまでの話。

「ダークナイト」はバッドマンが憎まれ役になるまでの話で、

いずれも続きを連想させる。

このようにエンディングの先に新たな展開を含んだストーリーの場合、タイトルを最後に持ってきても違和感がない。


なので、例えば「幕があがる」と同じく本番前の人間ドラマを切り取った「櫻の園」なんかは「タイトルを最後に出す」パターンが使えると思う。

逆に、前述した「七人の侍」や「ダイハード」「アルマゲドン」のように、ストーリーが作品内で完結しているタイプのものにこのパターンを使うと、
話が終わっているのにタイトルが出るのであべこべに感じ、逆効果になってしまう。



②主人公が一歩を踏み出すストーリー、は、

多くの人にとってははじめの一歩に過ぎないが、主人公にとってはその一歩が大きな意味を持ったストーリーを指す。

宇宙空間で、主人公のライアンが己の内なる弱さを克服するまでを描いた「ゼログラビティ」がそうだろう。

主人公の新たなる門出を迎えたところでエンドロールに突入している。

「世界は今日から君のもの」のストーリーもそうなのだが、主人公が殻を破るまでのドラマにフォーカスを当てた場合、

大抵ラストシーンでは主人公が新たなスタートラインに立っており、エンドロールの先に次のステップが待ち受けている作りになっているので、

これも①と同様にタイトルが最後に出ても不自然さは感じない。



どうだろう。

「タイトルが最後に出る」映画の共通点として①と②のいずれかのストーリーが用いられていることを挙げてみたが、あながち間違いでもないと思う。

とはいえ、ここまで書いてきたことはあくまで相性レベルの話に過ぎず、

相性がいいからといってうまくハマるとは限らないし、逆もまた然りだ。

例えば②に該当する「竜とそばかすの姫」のタイトルシーンを観ても、不自然には感じなかったが、じゃあ優れているかといわれたら首をかしげる。

結局、効果的に使うためにはタイトルを工夫することが不可欠だ。

そこで、相性に加えて、

「タイトルが機能的になっている」

ことが重要になってくる。

具体的には、

①ストーリーに組み込まれたタイトル
②ラストで意味が明かされるタイトル

の二つのケースがある(と思う)ので詳しく説明していく。


①ストーリーに組み込まれたタイトル、というのは、

ストーリーの一部をタイトルで補う方法で、
一番ベタ(と僕が勝手に思い込んでいる)なのが、セリフの代わりにタイトルが使われているケース。

例えば「ダークナイト」では、
「あいつの名は…」みたいなセリフのあとにタイトルで「ダークナイト」と出る。

この場合、タイトルがセリフとしてストーリーに組み込まれているといえる。

他にも、

(具体的な作品名が思いつかなくて申し訳ないが、)歌の曲名がタイトルになっている映画で、かつ、エンドロールでその曲が流れるケース。

脚本風に書くと、

○ ライブ会場 
  歌手の主人公、ステージ上でマイクを握りしめている。
主人公「最後の曲になります。聴いてください…」

○ タイトル「粉雪」

(エンドロールと共に粉雪の曲が流れる)

こんな感じのやつだ。
(もちろん曲は粉雪以外でもいい)

タイトル(とエンドロール)がラストシーンの演奏の代わりを果たす仕組みになっているため、

この場合は「ダークナイト」に比べるとタイトルがストーリーに組み込まれている感じがより強い。

さらに突き詰めるとタイトルでラストシーンを省略することができる。

例えば「英国王のスピーチ」はラストシーンでスピーチ本番を迎えるが、このストーリーをやや変えて、

(抽象的な例になるが)本番前にすでに主人公のドラマが決着している(=ラストシーンを描かずともスピーチの成功が約束されている)ストーリーになっているという前提で、

そのラストを脚本風に書くと、

○ スピーチ会場
  主人公、講師に見送られて、大観衆の待つ壇上へと向かってゆく。

○ タイトル 英国王のスピーチ

(完)

タイトルをラストシーンの代わりとして使うことができる。

このようにタイトルをストーリーの一部に組み込むことで「最後にタイトルを出す」ことに必然性を持たせるのが①のパターンだ。


②ラストで意味が明かされるタイトル、というのは、

タイトルの真意がラストシーンで明らかになるケースで、大抵の場合ダブルミーニングの形を取っている。(ラストシーンを迎えるまで意味のわからないタイトルでは観客が困惑するので)

「ゼログラビティ」と「ライオンキング」がこの②に該当している。


「ゼログラビティ」の原題は「Gravity」。

(僕の解釈が正しければ)作中では生きることを諦めかけている主人公の心の重みという意味での「Gravity」によるストーリーが描かれており、

ラストシーンではタイトルの意味が一変し、生き抜く覚悟を決めた主人公の生きる実感という意味での「Gravity」が描かれる、

というダブルミーニングになっている。

ゆえにタイトルの真意を強調する意味で「最後にタイトルを出す」ことに必然性がある。


※ただし「ゼログラビティ」は悪名高い邦題として有名で、邦題の意味が原題「Gravity」の真逆になっているため、本来のタイトルが持つ優れた効果が台無しになっている。

誰がつけた邦題かは知らないが、ストーリーに無理解な人間が作品に関わってしまったことが原因で起きたことなので、二度とこうした悲劇は繰り返さないでほしい。


「ライオンキング」の場合は「ゼログラビティ」と違って尖ってこそいないが、

作中で描かれるシンバが王になるまでのストーリーと、ラストシーンを含めその先にあるシンバの王としてのストーリー。

この二つのストーリーが一つのタイトルで示されており、

「タイトルを最後に出す(二つのストーリーの間にタイトルを挟む)」ことに意味がある。



この②を使って、
「櫻の園」で、ストーリーの最後にタイトルがくるパターンを作ってみた。

例によって結末だけ書く。

○ 舞台 
  部員が仲間の誕生日を祝う中、
  上映開始を告げるブザーが鳴る。

○ タイトル「私たちのブザー」

(完)

タイトルを「私たちのブザー」に変えた。

ダサいのはご愛敬だが、

思春期の女子の心の揺れをブザーになぞらえ、作中で描かれている心の揺れをラストシーンの上演開始のブザーとかけたダブルミーニングにしたつもりだ。

どうだろうか。


もう一つ。

宇多丸のお気に入り「アポカリプト」でもやってみた。

この作品は、スペイン人の到来という、
物議を醸したラストシーンがあるが、

マヤ文明による虐殺よりもその後のスペイン人による虐殺の方がはるかに重大なので、

エンドロール後に更なる虐殺が待ち受けているという意味で、このパターンが使えるストーリーだと思っている。

○ 浜
  船に乗ったスペイン人の宣教師らがやってくる。
  森の陰から様子を見つめる主人公家族。

○ タイトル「地獄が始まるよ」

(完)

作中でマヤ文明による地獄を描いた上で、
エンドロール後にさらなる地獄が待ち受けている、というダブルミーニングだ。


最後に、失敗例として冒頭に出した、
「七人の侍」でもやってみる。

「七人の侍」のストーリーで、タイトルを最後に持ってこようとした場合、

まず相性の問題で、野武士が村に攻めてくるまで、にフォーカスを当てたストーリーになる。

(抽象的な例になるが)殻を破れない百姓が主人公で、野武士が攻めてくる前にドラマの決着がついている、あるいは、もはや野武士との勝ち負けは重要ではなくなっている、(そんなストーリーが実際作れるかは別にして、)

つまり、百姓が一歩を踏み出すストーリーで、野武士が村に現れたところでエンドロールになるストーリーを想定した。

もちろんタイトルも変える。
「決戦」はどうだろう。

百姓の内面の「決戦」と、野武士との「決戦」、
この二つをかけてみた。

○ 村
  山の上に野武士の群、現れる。
  百姓、決意に満ちた眼差しで迎え討つ。

○ タイトル「決戦」

(完)

①ストーリーに組み込まれたタイトル
②ラストで意味が明かされるタイトル

の合わせ技をやってみた(つもりだ)。



長くなったので、まとめると、

ストーリーの最後にタイトルを出す場合、

①ある出来事の前夜を描いたストーリー
②主人公が一歩を踏み出すストーリー

と相性がいい。

その上で、効果的なものにするには、

①ストーリーに組み込まれたタイトル
②ラストで意味が明かされるタイトル

の二通りのパターンが考えられる。


これはあくまで僕が分析した結果なので、
偏りや誤りなど、あるかもしれない。

加えて、記事の分析結果をパターン(型)としたが、型はあくまで型にすぎない。

型を超えたものになるに越したことはない。

しかし、このように過去の作品を分析をして型を知らなければ型破りはできない。

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