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「マイインターン」の脚本に見る「優しい世界」の正体

※ネタバレあり

noteには「優しい世界」が広がっている。

なぜだか知らないけれど下書きを保存する度に励ましてくれるし、なぜだか知らないけれどnote編集部のオススメに記事が載ることもある。(僕はないけど)

そんなnoteの「優しさ」を体現したのような世界が映画にもある。

「かもめ食堂」
「マイインターン」
「幸せの隠れ場所」
「天国までまだ遠く」

僕はこれらの映画を指して「優しい世界」モノと呼んでいる。

レビューサイトを眺めればわかる通り「かもめ食堂」を筆頭にこの手の映画はとにかく毀誉褒貶が激しく、

受け付けない人はとことん受け付けない。
(かくいう僕もその一人なのだが、)

そこで(フィクションにおける)「優しい世界」になぜ気持ち悪さを抱くのか、その原因を探っていく。


先日、ロバートデニーロ主演の「マイインターン」を観た。

あらすじは、

定年を過ぎたベンが見習いとして若者だらけの会社に入り、働く中で若者たちを正しい方向に導いてゆく、という

いわば、お婆ちゃんの知恵袋的な側面を持った話で、

かつ、「老人なのにインターン」というシチュエーションが効いており、ストーリーラインが優れていることが一目でわかる。

(序盤を見た感じは)
古典にすらなり得る名作だと思った。

ベンがインターンとして入社し、女社長ジュールズの部下として働くところまで、非の打ち所がなく、書き手の手際も申し分ない。

前述した通り、短い文字数で話の全容が窺える優れたストーリーラインなので、

当然、想定されるストーリーとしては、

ベンが慣れない仕事に苦戦し、正反対の存在であるジュールズと対立しながらも、交流を通してお互いが認め合い、ベンが先人の知恵を発揮して会社の危機を救う

といったものになるだろう。

しかし、残念ながらそうはならないところにこの「優しい世界」の闇の深さがある。


「優しい世界」モノのストーリーには以下のような特徴がある。

1 主人公が周りから無条件に愛される
2 事態が深刻化せず、とんとん拍子に話が進む
3 キャラクター同士の対立が発生しない
4 登場人物が(ほぼ)全員いい人

ストーリーの構造は単純で、

・悩める主人公(=作者の分身)
・主人公の癒し係(=作者の味方)

の二者によって織りなされるストーリーだといえる。

冒頭に出した映画でいうと、

悩める主人公(作者の分身)は、
「マイインターン」ならジュールズ
「かもめ食堂」なら食堂の女主人サチエ
「天国までまだ遠く」なら加藤ローサ

仕事の悩みだったり、家庭の悩みだったり、何かしらの問題を抱えている。

主人公の癒し係(作者の味方)は、
「マイインターン」ならベン
「かもめ食堂」なら現地民の客たち
「天国までまだ遠く」ならチュートリアル徳井

癒し係の共通点としては、
絶対に主人公の味方であり、悩める主人公を癒すためだけに存在している点だ。

また、作品によっては主人公が(作者を癒すための)「癒し係」の役割を担っていることもある。

「幸せの隠れ場所」のビッグマイクがそうで、この場合、主人公のビッグマイクは「作者の味方」としてのキャラであって、おそらく「作者の分身」は(主人公のパートナーである)リーアンだと思う。

(つまり「作者の分身」であるリーアンは「ひたすら癒されるだけ」という立場になる)

最初に書いた「優しい世界」モノの特徴をさらに具体的に説明すると、

(以下、「かもめ食堂」を例に出す)

・なぜだか知らないけど主人公が現地民から差別や偏見を持たれず
(1 主人公が周りから無条件に愛される)

・なぜだが知らないけど店が繁盛して
(2 事態が深刻化せず、とんとん拍子に話が進む)

・なぜだか知らないけど素手で握られたおにぎりを客が平然と食べて
(3 キャラクター同士の対立が発生しない、または1)

・なぜだか知らないけどプールで拍手される(4 登場人物が(ほぼ)全員いい人、または1)

とこんな具合になる。

「マイインターン」の場合は、「かもめ食堂」ほど強烈な違和感はないにしろ、

・なぜだか知らないけどロバートデニーロが優しくしてくれて
(1 主人公が周りから無条件に愛される、 または、3 キャラクター同士の対立が発生しない)

・なぜだか知らないけど浮気夫が改心する
(2 事態が深刻化せず、とんとん拍子に話が進む または、4 登場人物が(ほぼ)全員いい人 または、1 主人公が周りから無条件に愛される)

このように通常のストーリーには見られない不可思議な特徴を持っている。


薄々感じている方もいると思うが、これらのストーリーはキャバクラに似ている。

疲れ切った主人公が、
自分を慰めてくれる相手と交流する

「主人公」を「客」に置き換えれば、まさにキャバクラのそれだ。

この点が「優しい世界」に対して気持ち悪さを抱く理由で、

書き手の「無条件で愛されたい」という願望が主人公に投影されており、

ゆえに、書き手の自我が滲み出したストーリーに観客は眉をひそめてしまう。

話は逸れるが、

この手の話を書く人は武術が好きなのだろうか。

「かもめ食堂」は合気道、
「マイインターン」はラストシーンで唐突に太極拳が出てくる。

奇妙な一致点を感じたのは僕だけだろうか。


「優しい世界」系の話を書こうとする人たちはそもそもストーリーの基礎が伴っていないことが多い。

しかし「マイインターン」や「かもめ食堂」の書き手の場合、決してそうでないのだから驚かされる。

(特に「マイインターン」の脚本術は優れていて、ストーリーラインからしてストーリーを知っている人でないと作れない)

つまり、これらのストーリーの欠点は単に脚本上の問題ではなく、

それ以前の「書き手の姿勢」みたいなことが問題になっていると思う。

書き手の中に「主人公は愛されるべきだ」という前提がまずあって、その前提が(一般的に見て)狂っているのだから改善のしようがない。

僕がよくわからないのは、

あそこまで高い水準の表現力を身に付けていながら、願望の投影という一点においてのみ、まるで創作始めたてであるかのようにお粗末な点だ。

もちろん、願望は誰でも持っている。それが創作の源になっているのだから、願望を抱くこと自体は別に悪いことではない。

しかし、普通は表現力を身に付ける過程でそういったものは自然と消滅していく。(表現という形で昇華されていく)

もしかしたら書き手は計算ずくで「優しい世界」を作っているのでは、とそういう可能性さえ考えてしまう。
(この手の映画は一定の需要があるようなので)


冒頭にnoteを「優しい世界」と書いたが、
noteのような「優しい世界」はフィクションにはいらない(と思う)。

フィクションである限り、なぜだか知らないけど主人公が「愛される」ストーリーよりも、

納得のいく理由に基づいて主人公が「愛される」ストーリーのほうが優れているのは明らかだ。

とはいえ、noteの風景を眺めていると脚本家志望者は「優しい世界」モノに活路を見出すのも一つの手なのかもしれない。
(僕はしないけど)

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