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脚本の形式について考えてみた

Twitterで見かけた考察。

(洋画と比べ)邦画がつまらない原因を脚本の形式の違いに求めるアプローチは面白いが残念ながら無理があると思う。

まず演出というのは作品全体において重要な役割を果たす一方で、脚本(ストーリー)に与える影響はごく限られているので、わざわざ脚本に書き込む必要はない。

例えば野球の映画でホームランを打つシーンがスローモーションになる演出があったとして、

仮にそれを書き込むことでシーンが面白くなったとしても、それはストーリーとは関係のない面白さだ。

ある劇的な状況でホームランを打つことがストーリーの面白さで、スローモーションかどうかはストーリーにとっては枝葉の問題に過ぎない。

そうである以上、ストーリーが本分である脚本に演出内容を書き込んだところで効果は見込めない。


次に「つぶさに演出を書き込むこと」と「セリフに頼らないこと」は同じではない。

これは書き手の志向の問題で、脚本の形式をハリウッド式に変えたところでセリフ重視の人はセリフに頼ったストーリーを作る。

そして当然ながら「セリフに頼ること」と「説明セリフ」は同じ意味ではない。

「キサラギ」を筆頭にセリフに頼った映画でも面白いものは少なからずあるので、

「説明セリフ」という言葉をもって「セリフに頼った」映画をつまらないものとするのは少し乱暴な気がする。


結局、いかなる形式であろうと書き手のレベルで決まると思う。

未熟な脚本術ゆえに「説明セリフ」しか書けない人はハリウッド式の形式にしたところで説明セリフしか書けないだろうし、

反対に日本式でも映画の特性を知り抜いた熟練の人なら説明セリフなど書くはずもなく、(基本的には)映像を重視した脚本を書く。

その場合、(僕の知る限り)うまい書き手ほどシンプルなト書きになっていると思う。


このように脚本の形式と脚本の面白さとの間には相関性はないというのが僕の意見だ。

ちなみに演出について少し補足すると、「演出」を「(セリフに頼らない)映像的表現」という意味で捉えるならば、

一口に演出といってもピンキリで、優れたものから説明臭いものまである。

最上級のものだと脚本用語で「シャレード」と呼ばれるものがあり、これはストーリーの範囲内のテクニックなので脚本に書き込まなければならない。

例えば海外ドラマ「ブレイキングバッド」のワンシーン。

割れた皿を復元することで改心したはずの相手が皿の欠片を隠し持っていることを主人公が知るというもの。

僕が最も好きなシャレードの一つで、どんなセリフよりも優れている、まさに映像ならではの表現だ。

あるいは「ミツバチのささやき」。

父親が鎌をかけて少女にオルゴールを聞かせたことで真相が明らかになるというもの。

こういったものは映像表現の醍醐味であり、繰り返すようにセリフでは表現することができない。


一方でキリの演出になると、

例えば落ち込んだ表現として登場人物がうつむく、とかだろうか。

この場合、その映像表現を選ぶくらいならそれよりも気の利いたセリフなんか他にいくらでも考えられるだろう。

このように映像表現といっても様々なので、

ゆえに映像重視の脚本(セリフに頼らないこと)が面白い映画とは必ずしも限らない。


実のところ、今回初めてハリウッドの脚本が日本の形式と違うことを知った。

脚本には設計図と読み物、この二つの役割がある以上、ハリウッド式と日本式はどちらも一長一短で、

ハリウッド式は誰でも理解できるが、短所としては設計図の色合いが強くなり、読み物として退屈になる。

反対に日本式では、読み物として面白い一方で、(脚本的な意味で)知能の低い人には伝わらない可能性がある。

冒頭のリンクのツイート内で「日本では制作側の都合上、脚本を読めない人たちが脚本に口を出す」問題を指摘する方がいたけれど、

邦画がつまらない理由は僕もそれなんじゃないかと疑っている。

脚本は日本語で書かれているから誰でも理解できるとつい考えがちだけど、

脚本を楽譜に置き換えれば、脚本を読めずに口を出す人たちがいかに無謀なことをしているかがわかるだろう。

そしてそういう人がなぜ映画の仕事に関わっているのか、根源的な疑問が今回のツイートを読んで頭をもたげた。

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