「起"転"承結」の使い勝手を試してみた◎(後編)

※前編はこちら
※脚本論の記事ですが、不本意ながらラーメンチェーン店天下一品てんこ盛りの内容になってしまいました。ご了承ください


長らくお待たせしました(誰も待ってなかった)後編。

ここからは起承転結と「起"転"承結」の二つの型を比較し、可能な限りフラットな目線で分析していきたい。

くどくなって申し訳ないが、前編で取り上げた天下一品の例をまた使う。

起 天下一品といえば「こってり」だ
承 (その理由や根拠の説明)
転 しかし実は今「あっさり」がきている(=書き手の主張)
結 「あっさり」をもっと食べよう
起 天下一品といえば「こってり」だ
転 しかし実は今「あっさり」がきている(=書き手の主張)
承 (その理由や根拠の説明)
結 「あっさり」をもっと食べよう

上が起承転結で、
下が「起"転"承結」。

並べるとわかる通り、主張は同じでも、型を変えることによって多少の違いが内容に生じる。

起承転結では「こってり」の前フリが長く「あっさり」を語るのは後半からになっているのに対して、「起"転"承結」のほうは「こってり」の前フリが短いため「あっさり」を重点的に語る構成になっている。

つまり、型が内容を変えているといえる。

以下、上に示した例を半ば強引にストーリー仕立てにして、起承転結と「起"転"承結」の型の違いがストーリーにどういった変化を及ぼすのかを確認していく。

(⛔️絵文字になるほどの人気店です)



まずは起承転結のストーリーから。

タイトルは「天一」。
登場人物は「こて男」と「あさ子」。

(起)主人公「こて男」にとって天一といえば「こってり」だ。付き合ってまもない恋人「あさ子」が天一好きだと知ったこて男は意気揚々と店へと足を運ぶ。しかしあさ子が頼んだラーメンは「あっさり」だった。

(承)あさ子が好きなのはなんと「あっさり」。その感性を理解できないこて男は「こってり」の魅力を熱心に説き、あさ子をこってり派に取り込もうとする。
さらにこて男は「こってり仲間」を集め、あさ子を巻きこんで色んな店舗でこってりを食べ歩く。こってりジャンキーと化したこて男はやがて激太りする。

(転)こて男は「こってり」の食べ過ぎで病気になる。医者から「あっさり」したラーメンなら食べてもいいといわれる。
天一にいったこて男は「あっさり」を注文し、意外なおいしさに感動する。同時に天一といえば「こってり」だと頭ごなしに決めつけていた自分の価値観が間違っていたことを知り、あさ子に詫びる。

(結)こて男とあさ子、カウンターに二人並んで仲良く「あっさり」を食べる。

以下、解説。

(※起承転結の意味を知らない人のために、起承転結の説明も添えておきます)

(起)主人公「こて男」にとって天一といえば「こってり」だ。付き合ってまもない恋人「あさ子」が天一好きだと知ったこて男は意気揚々と店へと足を運ぶ。しかしあさ子が頼んだラーメンは「あっさり」だった。

ストーリーをセットアップすることが「起」の役割だ。

この話を作る上で少しばかり参考にした「愛しのローズマリー」の映画を例に出せば、

美女ばかり漁っている面食いの主人公が「心のきれいな人間が美人に見える」催眠術をかけられるまでのパートが「起」。

言い換えれば、主人公が日常から非日常(=事件や特別な出来事)に突入する前、あるいは突入した瞬間まで、が「起」に相当する。

この「天一」では、天一といえば「こってり」だと信じて疑わない主人公が「あっさり」を頼む人間を初めて目の当たりにする、までを「起」とした。


(承)あさ子が好きなのはなんと「あっさり」。その感性を理解できないこて男は「こってり」の良さを熱心に説き、あさ子をこってり派に取り込もうとする。
さらにこて男は「こってり仲間」を集め、あさ子を巻きこんで色んな店舗でこってりを食べ歩く。こってりジャンキーと化したこて男はやがて激太りする。

「起」でセットアップした非日常のシチュエーションを活かしたエピソードが詰め込まれたパートが「承」。

「愛しのローズマリー」では、

催眠術にかかった主人公が巨漢のローズマリーに一目惚れしたことで周囲から変人扱いされるパート。

そのストーリーならではのシーンが展開される「承」は観ていて一番楽しいパートだ。

「天一」では男が「こってり」に骨抜きになっているシチュエーションを作った。



(転)こて男は「こってり」の食べ過ぎで病気になる。医者から「あっさり」したラーメンなら食べてもいいといわれる。
天一にいったこて男は「あっさり」を注文し、意外なおいしさに感動する。同時に天一といえば「こってり」だと決めつけていた自分の価値観が間違っていたことを知り、あさ子に詫びる。

おそらく起承転結の中でこの「転」の意味が最もややこしいので、少し長くなる。

「転」には二つの役目がある。

①ミッドポイント(Midpoint)
②テーマに裏打ちされた展開


①ミッドポイント(Midpoint)
ストーリーの中間地点(または折り返し地点)と呼べるもので、これ以降ストーリーが一変することになる。

「愛しのローズマリー」でいえば、主人公の催眠術が解けるシーンがミッドポイント。

「天一」では主人公の「こってり」の食べ過ぎによる健康悪化をミッドポイントとした。


②テーマに裏打ちされた展開

「承」ではそのストーリーならではの展開を描くのに対して、ここからはストーリーのテーマがメインになってくる。

「愛しのローズマリー」の「転」では、作品のテーマである「美しさは内面にある」の核心に迫ったパートになっている。

「天一」では「価値観の押しつけはよくない」というテーマの核心を「転」で描いた。


このように「転」は、

①ミッドポイント
=ストーリーを一変させる
②テーマに裏打ちされた展開
=ストーリー(の意義)の核心に迫る

の二つを同時に満たしているパートだ。

(※たまに勘違いしている人がいるが、「転」はその役割上、結果的にストーリーが大きく変化しているだけで、ドンデン返しのことではない)


(結)こて男とあさ子、カウンターに二人並んで仲良く「あっさり」を食

「結」は非日常での最終決戦、あるいは最終決戦が終わった後の日常パートを指す。

「愛しのローズマリー」でいえば、

主人公が告白してヒロインと結ばれる場面からエンドロールまでの余韻を「結」とする場合もあれば、

すべての決着がついたあと、つまりヒロインと結ばれた後の余韻のみを「結」とする場合もある。 

(個人的には決着後の余韻が「結」だと思っているので)「天一」では決着シーンを「転(のラスト)」、決着後を「結」とした。


どうだろうか。

「天一」の話が面白いかは別にして、起承転結の型を持ったストーリーとはこういうものだとわかってもらえたと思う。



では次に「天一」のストーリーを「起"転"承結」の型に当てはめていく。

起 天下一品といえば「こってり」だ
転 しかし実は今「あっさり」がきている(=書き手の主張)
承 (その理由や根拠の説明)
結 「あっさり」をもっと食べよう

起承転結よりも面白いものになっていれば、型として優秀だということになる。

ぜひ読み比べてほしい。

(後述するが、型に合わせて起承転結とは若干ストーリーを変えています)

(起)主人公こて男にとって天一といえば「こってり」だ。ある日「あっさり」好きの恋人と天一にいく。こて男は「あっさり」を見下し、「こってり」の魅力を滔々とあさ子へ説く。

(転)「こってり」を一口食べた瞬間、こて男は苦しみ出して病院に運ばれる。
原因は「こってり」の食べ過ぎ。医者から「あっさり」したラーメンなら食べてもいいといわれる。
天一にいったこて男は「あっさり」を注文し、意外なおいしさに感動する。同時に天一といえば「こってり」だと決めつけていた自分の価値観が間違っていたことを知り、あさ子に詫びる。

(承)こて男はあさ子と共に「あっさりの良さをもっと広めよう」という思いから「あっさり仲間」を集める。仲間たちと「あっさり」を食べて回る。色んな場所へいき、あっさりの輪を広げていく。

(結)こて男とあさ子、仲間たちと仲良く「あっさり」を注文。


以下、解説。

(起)主人公こて男にとって天一といえば「こってり」だ。ある日「あっさり」好きの恋人と天一にいく。こて男は「あっさり」を見下し、「こってり」の魅力を滔々とあさ子へ説く。

起承転結の「起」とは少し内容を変えた。

理由は、「起(の終わり)」で「非日常への突入」を描かなくても、この後の「転」でストーリーが一変するためだ。
(むしろ「非日常への突入」を描いてしまうと立て続けにストーリーが激しく動くことになってしまい不自然だ)

なので、この話では、天一といえば「こってり」だと信じて疑わない主人公の日常パート、を「起」とした。



(転)「こってり」を一口食べた瞬間、こて男は苦しみ出して病院に運ばれる。
原因は「こってり」の食べ過ぎ。医者から「あっさり」したラーメンなら食べてもいいといわれる。
天一にいったこて男は「あっさり」を注文し、意外なおいしさに感動する。同時に天一といえば「こってり」だと決めつけていた自分の価値観が間違っていたことを知り、あさ子に詫びる。

「転」は起承転結の内容とほぼ同じで、

構成的には、ミッドポイントである「こってりの食べ過ぎによる健康悪化」を序盤に繰り上げることで「非日常への突入」ポイントの役割を代わりに果たした格好になっている。



(承)
こて男はあさ子と共に「あっさりの良さをもっと広めよう」という思いから「あっさり仲間」を集める。仲間たちと「あっさり」を食べて回る。色んな場所へいき、あっさりの輪を広げていく。

続いて「承」。

起承転結の「承」では「こってり仲間」を集めたのに対して、こちらの「承」では「あっさり仲間」を集めてあっさりの良さを広めていくシチュエーションにした。


(結)
こて男とあさ子、仲間たちと仲良く「あっさり」を注文。

「結」は起承転結とほぼ同じ。




比べてみて、どうだろう。

どちらも「(こってりとあっさりをモチーフにして)自分の価値観をヒロインに押しつける主人公がその間違いに気づいた」というストーリーになっている。

起承転結と比べると「起"転"承結」のほうが後半ダレているのがわかるだろうか。

理由は簡単で、「起"転"承結」のストーリーは「転」のラストで事実上話が終わってしまっているからだ。

「転」の時点で急ぎ足でテーマを示し終えたのだから、この後ストーリーが長々と続く必要はなく、 

「承」の「あっさり仲間を集める」パートが消化試合になってしまっている。


違いはもう一つある。

「起"転"承結」のストーリーは「ミッドポイント」が失われてしまっている。

解説にも書いたように、「ミッドポイント」を序盤に繰り上げたことが原因だ。

お気づきの方もいると思うが、「ミッドポイント」を「非日常への突入」ポイントの代わりに置いた以上、「起"転"承結」の「転」は「承」としての役割しか持たない。

(テーマという点では「転」の役割は残ってはいるにはいるが、
起承転結に比べてストーリーが歪なのでテーマさえも伝わりづらく、実質「転」の役割は限りなく薄い)

つまり、「起"転"承結」の正体とは実のところ「起承承結」のストーリーに他ならない。

それはストーリーとして余りに心もとないのは明らかで、例えば、映画「タニタニック」を想像してほしい。

序盤でタイタニックが(ミッドポイントであるところの)氷山に衝突し、その後、延々と沈没時の描写が続いたあと、ジャックがローズを助けておわり。

「タイタニック」のストーリーを「起"転"承結」の型に当てはめるとそうなる。

氷山衝突という「転」を持つ本来の「タニタニック」のストーリーと、どちらが優れているだろうか。

もちろん氷山衝突が「起→承(非日常の突入ポイント)」でもストーリーとして何らおかしくはないが、
その場合、氷山衝突の代わりになる新たな「転」を考え出さなければストーリー後半を盛り上げることは不可能に近い。


このように「起"転"承結」の型を使うと(ミッドポイント、テーマのいずれの意味においても)「転」が消滅することになるため、しっかりとした「転」を持った起承転結の型には残念ながら及ばない。

では、「起"転"承結」は使い物にならないのか。

「天一」や「タイタニック」のストーリーはたまたま内容が「起"転"承結」の型と合わなかっただけで、「起"転"承結」の型に合ったストーリーがあるはずだ、

と思った人も中にはいるかもしれない。

「起"転"承結」の使い道が唯一あるとすれば、それは(「承」の意味を理解していない書き手による)「起」の長いストーリーで、ミッドポイントまで一向に話が始まらないケースだ。

その場合は、「起"転"承結」に当てはめてミッドポイントを序盤に繰り上げることでストーリーの荒療治になるだろう。

しかし、その場合でも、当然「承」のために「転」が消費されるのだから、空いた「転」を埋めるための新たな「転」が必要となり、後半がダレることはいうまでもない。

結局、面白いストーリーは起承転結の型から逃れられないということだ。

だからこそ起承転結はストーリーの王道であり、起承転結を極めることはストーリーを極めることに等しい。

その上で「パルプフィクション」のような型破りの作品が生まれるのであって、「起"転"承結」のストーリーは型破りのそれではない。

古賀さん、これ全然使えないです。



繰り返すように小論文において「起"転"承結」が有効なのはわかる。

しかし、だからといってその型をストーリーに逆輸入し、「ストーリー作りに使える」と結論付けるのには無理がある。

ストーリーに「起"転"承結」はありえない。

「起"転"承結」の型を取れば、再三書いてきたように必ず「起承承結」の形になり、

それを防ぐためには新たな「転」を作らなくてはならないという二度手間に陥る。

古賀さん、これ全然使えないです。(二回いった)




(以下前編に貼った記事を再び引用、太字は僕)

古賀:そうですね。飽きるのと、やっぱりくどくどした説明がずっと続くので、例えば映画館でもう席に座っちゃって、2時間我慢して観るしかないというよっぽどの状況だったら、起承転結の転まで待つのはできるかもしれないけど。

この発言のピントがいかに外れているか、ここまで僕の記事に付き合ってくれた方はわかっていただけたと思う。

前編の冒頭にも書いたが、「起」でツカむこと(ストーリーのセットアップ)に成功すれば、「承」が退屈なはずがない。

しかし面白いだけでは観客は満足しないのでストーリーにはテーマが必要で、

そのテーマに裏打ちされた展開を描くのが「転」の役目であり、「転」だから面白いというわけでは決してない。

(「転」の面白さとは、どちらかといえば鑑賞後にジワジワと効いてくる類のものだ)


むしろ、起承転結って誰が最初に設定したんですか?

悲しいことにビジネスの視点からストーリー論を垂れ流す記事を最近よく見かける。

教授の一言がすべてを物語っているように、その多くがストーリーにおける起承転結の本質はおろか意味すら理解していない素人による知ったかぶりだ。

「起"転"承結」なる使えないものを使えると言い放ち、それを使えば面白いストーリーを生み出せると初心者の人たちを信じ込ませるのは罪深いと思う。

あんな記事に騙されてはいけない。

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