自分の言葉で話す人になる
と、先日、とある大人の方に言われました。浅い考えを見透かされて、ぐさぐさっと心の深いところまでえぐられたような感じでした。
自分の言葉で発言する
現在、僕は障がいを持っている人の日常介護を手伝うボランティアサークルに入っているんですが、そこではよく「自分の意見」というものを求められます。
そこで大事にしているのは、全員が発言できる環境をつくること。
身体障がいや知的障がいをもつ人は、声でコミュニケーションがとれなかったり、気持ちを言葉にするのが苦手だったりします。それでも、僕らが自由に発言できるように、彼らも彼らにとってやりやすい手段で発言できる環境が整えられていなければなりません。
それは往々にして時間がかかったり、周りの人の手がかかることだったりします。身振り手振りとか、トーキングエイドという機械を使って伝えるんです。ただ、それでも彼らの意見を聞くことが一番大事で、そのための労力は惜しみません。
そうした文化があるからか、当事者も介護者もあわせてそこの人たちは一人一人が自分の意見をちゃんと持っているし、それを外に出すことを求められます。だからこそ時にぶつかり合うし、終着点が見えないまま時間が過ぎていくこともあります。僕なんかはそれをとっても尊い関係だと思ってしまうんですが。
冒頭の問いかけは、まさにそのサークルの中でもらったものでした。
そこで介護に携わり始めて2か月ほど経った頃、自分の中の気づきや学びをみんなの前で言葉にする機会がありました。僕は、僕なりに得たものを解釈して言葉にしたつもりでした。
それが、一通り話した後、言われたのが、
「それって、誰かの言葉?」だったんです。
どういうことかというと、僕の気づきの話のはずなのに、話が全て一般化されてるという指摘でした。
そう言われた僕は、返す言葉を持っていませんでした。
「これが人から借りた言葉だったら、おれはおれが考えた言葉で話したことはほとんどないんじゃないか」と強い危機感を感じました。
「自分の言葉で話す」ってなんだ?
こんなことを考えていると、昔読んだこの記事を思い出しました。
これめちゃめちゃ好きな文章の一つです。
この人が言っている「言葉とその人の関係」には、うんうんとうなづくばかりですし、そう言うこの人が書く文章も僕には読んでてとってもいいなぁと感じられます。
会ったこともない遠い存在の人ですが、なんとなくその人となりが分かるような。これがさらに知っている人だった場合の腹落ち具合がすごそうです。
「自分の言葉」とはそもそも何かを、上の引用をもとに考えてみます。
”発する言葉とどのように生きてきたかがしっかり重なって”
とありますが、ここで言う「どのように生きてきたか」は、「どのような経験に対してどう思考してきたか」と言い換えられるのではないかと思います。
以前、言語学の授業で、ソシュールの理論を扱ったことがありました。
ソシュールが言うには、この世のあらゆる物事は、あらかじめ決まった形に対して言葉があてられるのではなく、むしろ言葉をあてることによってモノや概念は形を成す、らしいのです。
これは、私たち個人の思考についても同じことが言えるかと思います。
「自分の思考を言葉にできない」とよく言いますし、僕もそれで悩んできましたが、ソシュールの考えに立てば、そもそも言葉になっていない時点でその「思考」とやらは存在していないのと同義だと言えます。
言葉にすることそのものが思考だと言える。
それならば、自分の言葉になっていないと感じるのは、自分の思考ができていないと言うことができるんじゃないかと思うんです。
言葉が出てこないんじゃなくて、出すべき考えをそもそも持っていない。自分で思考していないから、人から借りた言葉で代替しようとするし、人に流されてしまう。それじゃつまんないよなぁとここまで書いて感じました。
これは本当に目指したい姿です。
少なくともこのnoteでは、自分のないものを隠すような文章は書きたくありません。足りなくていいから、ちゃんと等身大で思考したものを外に出す練習をしていきます。