〈服装自由〉の矛盾
昨年末からアイザイア・バーリンの自由論を読み始めたものの、決して読みやすい本だとは思えないし、正直あまり進んでいない。かねてから私には〈服装自由〉という言葉の意図することに疑問があった。バーリンの「消極的自由」と「積極的自由」の定義の話がこの本に書かれていると知って、これを読んでみることにした。まだ総ページ数の10分の1も進んでおらず、読了までの道のりは長そうであるが、しばらく抱えてきた私の疑問がもしこの1冊で片付けられてしまったらつまらないから、読み始めの今のうちに〈服装自由〉への思いを残しておきたい。
〈服装自由〉はとにかく厄介である
〈服装自由〉は、人が集まるとき、主催者側が指示・指定することの中によく見かける。文字通りに捉えれば、参加者は何を着て出向いてもよいことになる。例えば友人・知人のお祝いパーティーや、仕事の面接、何らかのセミナーなど、おそらく大抵のものが、正装またはかしこまったスーツ着用までの必要はないと伝えるために〈服装自由〉とされているように思うが、それならその通りに伝えればよいものを、なぜ〈服装自由〉とするのか。試されている感じがありありとしている。
仮にスーツ着用とあればまずスーツが必要で、それに合わせるシューズやバッグ、小物も必要になってくる。これらが手元にないときには用意しなくてはならないし、着用に不慣れであれば想像するだけで窮屈な堅苦しい気分になる。しかし〈服装自由〉の4文字がこの憂鬱から解放してくれるのだから、ああよかった、お金がかからないで済む、硬い靴を履かなくて済む、と安堵するのも束の間、「スーツ着用でなくてよい」と〈服装自由〉の間にはかなりのスタイルが存在するから、その範囲で服装を考えて選択・調整しなくてはならない。
〈服装自由〉を言葉通りに受け取ってはならない
ここで問題なのは、〈服装自由〉を伝えた側も伝えられた側も実はそのほどんどに於いてこれを文字通りの意味には捉えていないということだ。自由、とされながらTシャツにデニムパンツで行けば顰蹙を買うとか、スーツで行けば「服装自由とあったのにスーツ着てきたの?」と言われるとか、つまり全然自由ではなく、お察しスキルが求められる言葉だから本当に困る。文字通りに捉えて自己表現の我が道をいける人もいるであろうが、何らかの人との繋がりや目的があって出向くのだから、その場の空気やら紹介者の面子やらを一応気にする側の人にとって〈服装自由〉ほど面倒なことはない。せめてドレスコードの一つくらい示してくれたら、自由の許容範囲が読み取れるのに。
「自由=カジュアル」の固定概念
自由とは端的には制限されないことであるが、〈服装自由〉すなわちカジュアルでよい、と捉える人が多いと思う。カジュアルな服装の方が着用時の身体的な拘束感は少ないし、装いのルールやマナーもあれこれ気にすることが少ないから、そういう意味では確かにカジュアルな服装は自由さの表れかもしれない。
しかしこれが普段からスーツ着用に親しみ、出かけるときはむしろスーツの方が自分らしいし気も楽で落ち着くという人の場合はどうだろう。〈服装自由〉がカジュアルな服装を指す意図で使われているなら、この人は、本当はスーツを着たいのに着られない不自由を言い渡されていることになる。そうなると〈服装自由〉は自由と言いながら実は裏腹に、人の選択を制限する意味を持つのだ。
〈服装自由〉に求められていること
本当の意味で何を着てもよいし、服装で何も判断・評価されることがないと保証されている場合を除いて、〈服装自由〉の言葉が求めることはおそらくこうだ。「あまり堅苦しくしたくないしあなたの個性も見たいから、正装やかしこまったスーツの着用まではしなくていいけれど、集まりの目的やあなたの立場、会場のクラス感を踏まえた上での服装で来てください。服装はこちらに対するあなたの姿勢として受け取ります」つまり、〈服装自由〉の本当の意味は、この範囲でどうぞご自由にということである。当日何を着て行くか考えあぐねているうちに、スーツ着用の指定だったらどんなに楽だっただろうと思うこともしばしばで、そのときの気分たるや解放感や楽しさとからは程遠い。
誰のための矛盾か
〈服装自由〉の本当の意味を考えると、この4文字だけではあまりにも言葉足らずであるし、自由に対して矛盾を感じざるを得ない。しかもこの矛盾がなぜ発生しているのかに考えが及ぶと、さらに納得できない。当日の服装をあなたの姿勢として受け取る気満々の主催者が、正直にそう伝えると感じが悪いだろうからそれを避けるために、自由と言いつつ相手の行動・選択に制限をかけ、さらには評価もするつもりなのである。ポジティブなイメージを与える言葉を盾に実はスマートに狡猾なところが、なんともかなわない。もちろん、これまで評価してやろうなどと初めから思って〈服装自由〉を使ったわけではない人もたくさんいるであろうが、では、想定の範囲を超えて自由な姿で現れた人がいたとき、それは〈服装自由〉とした自分の(主催側の)責任だと思っただろうか。それとも、「まさか、自由が過ぎる」と思っただろうか。
誰の自由が優先されるのか
言われなくても考えて行動できる人と関係を築いていきたいと思っていて、ふるいにかけるのにちょうど良いシステムなのかもしれないし、その場を想定通りの空気(参加者の服装が醸し出す雰囲気)で進行する自由が主催者にはあるかもしれない。さらには、参加者側にとっても〈服装自由〉からいかに主催者の意を汲んで表現できるかアピールできる自由なチャンスと捉えることもできる。しかしその中で、主催者の言う〈服装自由〉を文字通りに受け取って自由に行動した人はふるいにかけられてしまう。自由と言ったら自由ではないのか。初めから意図していることがあるにもかかわらずそれを伝えず、相手に不利益を被らせることは、悪意ではないのか。