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愛する人の演奏だから、聴く私が、幸せになれるのですね❤

先週の金曜日の夜、2年ぶりに上野の東京芸術大学の奏楽堂で、山下一史さん指揮のコンサートを聴いてきました。

山下さん指揮のコンサート自体は、今年もすでに数回聴いています。ただ、上野の芸大の奏楽堂(大学が所有するコンサートホールです)で、山下さんを聴いたのが2年ぶりなわけです。

1年前、行くつもりだったコンサートが中止になりました。もちろん、コロナ騒動の影響ですけれども、そのコンサートの振替公演だったようです。

メインがチャイコフスキーの交響曲の第5番。前半に、アルヴォ・ペルトの「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」と、リヒャルト・シュトラウスの「オーボエ協奏曲」。後者のソリストのオーボエ奏者は、吉井瑞穂さん。山下さんも吉井さんも、芸大で教えてらっしゃるのですが、吉井さんは、昨年着任されたのだそうで、今回のコンサートはそのお披露目も兼ねていたようです。

チャイコフスキーの作品以外は、すべて初めてコンサートで聴きました。ただ、リヒャルト・シュトラウスの作品は、ラジオで以前聴いて、「あ、良い曲! 山下さん(の指揮)で、聴きたい!」と願ったものです。山下さんが、この作曲家を「生涯研究してゆきたい」と考えるほど愛してらっしゃるから、というのもありますが、私にとって最愛のマエストロですから、聴くなら彼の指揮が良いのです。

私は、クラシック音楽を本格的に聴くようになって、10年ちょっとですが、♬は全然わかりません。聴き始めた頃は、何が何だかわからないことばかりでした。ですが、自分が聴いてみて、「この人の演奏、好きだわ!!」と思える演奏家に出会って、自分の軸ができたようです。

理屈ではありません。言葉ではうまく言えないけれど、聴いていて、心身に響くものがある音。座席に座っているだけでは、物足らなくなるような衝動を起こさせてくれる演奏をする存在。そういう人が見つかってからは、その人に作品の魅力を伝えてほしくて、演奏会に出かけるようになりました。

山下一史は、そういうおひとりです。現在、私の地元のオーケストラ・千葉交響楽団の音楽監督をなさっています。今年の3月で任期満了でしたが、契約を更新、さらに5年間継続してくださったそうで、私はこれからのさらなる飛躍を楽しみにしているところです。これまでの5年間の育てなおしは、見事でしたからね。

この山下さんが、教鞭をとってらっしゃる東京藝大が持つプロのオーケストラ、藝大フィルハーモニア管弦楽団の指揮もなさっているわけです。初めて両者の演奏を聴いたのは、確か8年前だったように思います。1時間のミニ・コンサートでしたが、私にはあまり良いものに聴こえませんでした。それで、しばらく行かなかったのですが、確か3年前に、「ちけっと・ぴあ」が、「ねぇねぇ、あんたの好きなマエストロが、演奏するよ!」と教えてくれたことがあって、行く気になって出かけました(誤解のないように申し上げておきますが、もちろん、この表現は、擬人化でございます。まぁ、確かに、そういうお知らせが届くようにしてありますが、こんなに慣れ慣れしい言動はありません)。山下さん指揮のコンサートに飢えていたのですね。

芸大の奏楽堂は、なかなかいいホールでして、座り心地も快適です。そのころは、きわめて平和な時代で、全席自由でしたから、経験から山下さんが良く観えて、音もよく聞こえる場所を確保して、ニコニコしていたものです。

ただ、ホールがどんなに良くても、肝心の演奏がダメではお話になりません。その時聴いた演奏、もちろん、悪くはなかった。けれど、何かが足りないなぁ、という消化不良気味の内容でした。

今回、全体を通して考えれば、以前よりはるかに良い演奏でした。ことに、メインのチャイコフスキーは、山下さんの指揮で聴くのがこれで3度目ですが、過去の2回の演奏にも、見劣りがしないほど素晴らしかった。

見劣りはしないのだけれど、でも、何かが足りない。チャイコフスキーの5番は、私も大好きな作品で、比較的聴いている回数も多いので、要求するレヴェルが高いのか? それは確かにある。私の中で、楽章へのイメージがあって(楽譜がわからないので、名演を聴いたときに頭に浮かんだイメージを覚えているわけです)、そのイメージに合った演奏かどうかが、判断基準だから。

そうしているうちに、ハタ! と、気が付きました。足りないのは、オーケストラだと。私は、芸大フィルを愛しているわけではなく、山下一史の指揮だから、聴きに行ったわけです。すると、無意識のうちに、自分の最愛のオーケストラ・仙台フィルハーモニー管弦楽団の楽団員の方々の演奏と比べているわけです。或いは、山下さんがシェフになってくださったおかげでよく聴くようになった千葉交響楽団の方々とも、比べたりしているわけです。同じ曲の演奏であっても、演奏家に個性があって自分の音を持っているのですから、違うのが当たり前ですね。その違いを受け容れられるほど、私は芸大フィルを愛せていないわけです。別の言い方をすれば、その違いを楽しめるレヴェルのものではなかった、ということにもなりそうです。

先日、新聞の夕刊で、ジャズピアニストの方が、スランプに陥った時に、自分を救ってくれた言葉を紹介されていました。今、手元に記事がないので、正確なところが紹介できませんが、私がその記事を読んで、腑に落ちたことがあるんです。彼女は(お名前も覚えてないんですが、女性だったことは記憶にあります)、自分を救ってくれた言葉から、こんな結論を導いているんです。

「私の演奏を聴いて、聴いてくれた人がハッピーになってくれたらいいな」

聴く人をハッピーにする演奏。おお!! それこそ、私が愛してやまない演奏家たちを表現した言葉だわ! 私が聴きに行くのは、彼らからハッピー=幸福を受け取るためだし、そうしたいからなんだ!!!!! 去年半年コンサートがなくなって、元気がどんどんなくなったのも、幸福を受け取る機会がなくなっていたからなんだ!!!!!!! 

私は、昨年、コロナ騒動でコンサートに行けなくなって、音楽が聴けるということのありがたさを身をもって知りました。けれど、それでも、音楽なら何でもいい、オーケストラならどこでもいいし、指揮者も誰でもいい、ということには決してなりませんでした。私が聴きたいと願い、出来うる限り出かけてゆく、その気にさせるのは、私が愛してやまない対象だけです。彼らが奏でるからこそ、私は、ハッピーになれるし、生きる気力も出てくるんです。

そんなことを、はっきり確認した先週の夜でした。まぁ、2年前より良くなっていますから、来年も山下さんがご登場なら出かけてゆくだろうなぁ、とは、思いますけれどね(←結局山下さんの指揮が聴きたいのでありますなぁ)。

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