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#01 暗い80年代と得体の知れないノイズ ~ Public Image Ltd 『Flowers Of Romance』 (1981)

ラジオから漏れ出す

とりあえず霧散するのが前提なのだろう。「こうしろ、ああしろ、そうしろ」と、四六時中せき立てられる世界からするりと抜け落ち、受け身に流れ、最終的には消え入ってしまう。そのような身のこなしに憧れを抱かずにはいられない。意味のあること/ものを日々、積み増してゆくのが真っ当な生活者としての態度であるならば、それとは逆の方向へとリスナーの目を向けさせるような音楽に親しみを覚える。

霧散する音楽は往々にして安物のラジカセのスピーカーから漏れ出してくる。ハイレベルのオーディオ機器で音楽を享受すれば(そんな聴き方はしたことないが)、また別のナニモノかが聴こえるのかも知れないが、それでは猥雑なマジックのような瞬間に立ち会えないのではなかろうか。昔のラジカセや黎明期のウォークマンのレンジの狭い音像は「得体の知れないノイズ」を呼び寄せる呪器として最適だったのではと思う。ともあれ1981年の年末、NHK FMの名物企画「渋谷陽一のロック大賞」にてPILの「Under The House」のさわりの部分が流れてきたとき、ラジカセのスピーカーから何やら粒子状のものがメラメラと立ちのぼるのを感じた。

ラジオはときとして異界へと開く扉になる。それ以前にも、例えばビートルズの「Cry Baby Cry」やピンク・フロイドの「Echoes」を深夜のラジオで耳にしたときには、自分が今いる場所とは別の世界を覗き見たような気になっていた(リアルタイムではなく、どちらも1981年頃のこと)。が、PILによる演奏なのか呪文なのかよくわからない霧状のものは、スピーカーの向こう側からついに部屋の中へと立ち込め、あっという間に消えていったのです。曲の冒頭から1分足らずの、ほんの短い時間。渋谷氏も「ここだけ聴くとワケが分からないですね…」みたいな事をのたまっていたように思います。

調べてみると、この日の放送では他にクイーンだのマイケル・シェンカーだの、中学生だった当時の自分にとってたいへん馴染みある人たちも紹介されていたはずなのに、まるで記憶にない。残っているのはPILの2曲「Under The House」と「Flowers Of Romance」に、デヴィッド・ボウイの「Ashes To Ashes」のみ。その日を境に音楽の趣味が劇的に変わった、という訳ではない。でも、そのとき何かが心の深い場所に刻みつけられたのは確かなようです。

捨ててこそ…

音楽の負性への沈降。キース・レヴィンという稀代のノイズ・メーカーに引きずられてのことなのか、それとも筋金入りのプログレ・マニアでもあったジョン・ライドンの元々の資質だったのかはよくわからない。が、作品ごとに音楽の底の底を目指し深みへと降りていったPILの旅は、ここへ至って映画「Uボート」の乗組員よろしく窒息寸前の臨界点に到達し、なにか空気が白んでいるような、そこではとても正気ではいられないような、しかしだからこそ正しいともいえるような音楽の有り様を提示してみせるのです。

その空気の「白み」によって、音楽を作って発表する、という行為における倫理観がかろうじて担保されているのではないかという、淡い、時代の真空地帯のような雰囲気がここには漂っているのだと、今にして思います。それが、この島国のありふれた地方都市の六畳の部屋にも裂け目を見つけ、漏れ出していたのだと。例えばL・ツェッペリンの消滅とか、R・ストーンズの継続とか、K・クリムゾンの復活などといったロック史的なトピックとは別の地点で、PILが、不安定な足場に立ちつつも、あるいは立っていたからこそ、それらを合わせたのと同等の重みをもって孤独に対峙し得ていた時代が、ほんの短い間だったとはいえ、本当にあったのだと思います。視界の片隅に空虚さがゆらゆら揺らめいていて、誰もがそれに気付かないフリをしながらも決して無視することができないような。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

詠んだのは空也上人でしょうか。ともあれ、下方向へと突き抜けた先にかろうじて普遍性を見いだすことができるかも知れない。その可能性へ有り金を賭ける。そんな身振りがここにはあったと思うのです。

零地点の風景

アルバムの終わりの一つ前に入っている「Go Back」は不思議な余韻を残して通りすぎる。J・ライドンの歌とK・レヴィンのギターが苛烈に反応しあうことはなく、双方が同量のハカナサをもって静止して、凪のような気配を漂わせている。静けさの中に潜む微かな危機感。ここいら辺りが音楽のゼロ地点として、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやピンク・フロイドの最も非ロック的な部分をかすめ、J・ライドンの愛聴盤でもある、サード・イヤー・バンドの歌のないアルバム『Alchemy』(1969) あたりと共振しているのではないか、という気がします。

試しに『Alchemy』と『Flowers Of Romance』をプレイリストにぶち込んでシャッフルして聴いてみても、さほど違和感はないはずです(ちなみに前回の『For How Much Longer …』とマイルスの『On The Corner』もシャッフルで聴くことがありますが、こちらは違和感がある。しかしそれもまたいい)。歌のある無しが問題にならない混然とした地点から、間断なく呪術性が立ち昇るのを感じる。

打ち捨てられ、錆びついた油田から、それでもなおドス黒い原油が漏れ出すように、誰も聴く者がいなくとも、ズブズブと寄る辺なく音楽が生成されているような" 凄み "を、この二つのアルバムは持ち合わせている。それはとりあえず" 作品 "として仕立てられて世に出てはいるものの、その突端はそちら側へと繋がっているはずなのです。

そこでは歌い手の存在は希薄になり、白んでゆく。しかし、そこに漂う未達成、逡巡、震えのようなものの目指す射程は、きっとはるか遠い場所であるに違いない。

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