#02 擬似ファンクの帝王 ~ Miles Davis 『Agharta』 (1975)
積み増さないトランペット
" 未到達 "の目指す射程は" 到達 "のそれよりも遠くにある。負の音楽はそのようなパラドックスを抱え込んだまま鳴っている。
マイルス・デイビスの、いわゆるエレクトリック期(1968〜1975)の最期を締めくくるライブ盤『Agharta』と『Pangaea』は、もはや誰も異論を差しはさむことが出来ないぐらいの名盤として君臨している。が、これらを" 完成度 "の高い作品であると評価する者はいないのではないのか?
そもそもジャズ的な音楽というものはプレイヤー同士の果たし合いを記録した、ある種のドキュメントのようなものなので、完成度を云々すること自体がおかしなことかも知れないけれど、果たして当時のジャズ・リスナーは『Agharta』におけるふらついたトランペットと、禍々(まがまが)しいオルガンの音色をどのように位置付けていたのでしょうか?この大阪公演時には、御大マイルスの体調は最悪の状態だったと伝え聞きます。「今、マイルスと相撲を取ったら勝ってしまうかも知れない、、」という微妙な心理状態がバンド内に張り詰めているのを感じます。
しかしながら、そこにこそ「負の音楽」的なものが顔を出す裂け目がある。その領域では、音を外しただとか、ふらついているだとかはまるで関係がないことです。ある種の" 剥離 "がそこで起きているかどうか?そこが死活的に大事なのです。マイルスの音楽からジャズ的なものが少しずつ剥がれ落ち、なにやら妖しい音塊が立ち現れるときの愉悦。「積み増す」音楽へ回帰する必要性をついに無くしてしまった地点に、ふと音楽の「負性」は浮上するのです。
ここでのマイルスのトランペットの音色はもはや妖精のようですらある。最大限の自由を与えられたピート・コージーのギター・サウンドとバンドが織りなす音空間に、ふらふら舞っていれば、それでいいのです。
Jazz, Miles
高校生のときにマイルスの『Kind Of Blue』を初めて聴いた。ジャズぐらいは嗜んでおかないとダメなんじゃないかと思い、一番有名なアルバムを取り敢えず選んではみたものの、まるで受け付けなかった。10代のころに理解できなかった音楽が、歳を重ねるごとに段々とその良さがわかってくる、というのは有りがちなことだけれど、このアルバムというか、この年代辺りのモダン・ジャズ全般に関しては今も興味が持てないままでいる。時々トライしてみるけど、やっぱり高級焼き鳥店にしっくりくる酒飲み音楽という次元から出ることがない。
それ以来、マイルス的なものには関わらずに生きてきたのですが、2010年代に入って、マイルス・フリークの方からワイト島のライブ映像を観せてもらって以来、見方が一変した。「まるでキング・クリムゾンではないか !?」第一印象はそうだった。ドス黒い音の塊がはけ口を求めてモゾモゾと蠢く様は、ジャズであるよりも、むしろプログレであり、フリージャズであり、ノイズであった。以来、遅ればせながらエレクトリック・マイルスを掘り始めることになるのでした。
そして必然的に『Agharta』『Pangaea』に辿り着くわけですが、ここへ至るマイルスの道のりはサウンドの外壁が徐々に希薄になり、音楽が宙に漏れ出すままにカオス度と妖気を増してゆく軌跡なのだと思います。ちょうどプログレのサウンドが段々と精緻に、健全に整えられてゆくのとは逆の様相を呈している。そう考えると70年代中盤において、マイルスが孤軍奮闘して守り抜いていた領域というのは、とてつもなく大きなものだと、遅れてきたファンとして思う訳です。
擬似ファンク
『Agharta』は" のたうつ "音楽だ。それはもう、ジャズからは随分と遠いところで鳴っている。それではこれはロックなのか、それともファンクなのか?否、どちらでもない。それは" 擬似ファンク "なのだ。
" 擬似 "などという言葉を使うと、マイルスの音楽は紛い物であると言っているように聞こえるかも知れないけれど、そうではない。いや、紛い物の中にこそ核心に触れるナニモノかが住まうこともあるので、あながち間違いではないかも知れないけれど、ここでの「擬似」は、ファンクの体裁をとってはいるものの、そこから逃走し、別の場所を目指すナニモノか、ぐらいの意味で使っています。
70年代末からのポスト・パンクの時代にはPILとか、コールド・ファンクと呼ばれていた連中だとかが、ファンクが本来的に持ち得ている" 凝集性 "を全く欠いてしまったような、ファンクの抜け殻のような、それでいて圧倒的に格好いい音楽を生み出していましたが、エレクトリック・マイルスをその先鞭と捉える見方もあるのではないのか?
この時期のマイルス・バンドのサウンドと、ファンクとの接点について、黒人音楽との相関については、これまで、多くの識者が首を突っ込んできたトピックではありますが、例えばJBなり、スライなりのファンクとエレクトリック・マイルスとを、時系列的な相関関係のみで括ってしまう論調には違和感を感じる。
あくまで個人的な見解ではあるけれど、ファンクなりブラック・ミュージックなり、というのは「その時、その場に集いし者たちに一体感を共有させる」ことを本質とした音楽ではないかと思うわけです。そして、そこから影響を被った多くのロック、歌謡曲、J-ポップなりも、それが正しいということを前提に成り立っている面があります。一方の擬似ファンクの方は、そこに集っていようがいまいが、各人をてんでバラバラにあちこちに飛ばしまくるような、アナーキズムを底に抱えたものであると想定しています。
ファンクは「凝集性」、擬似ファンクは「拡散性」、それぞれ逆向きのベクトルを内包している。
マイルスは事あるごとに「自分がバンドの全てをコントロールしている」的な発言を残していますが、半分は本音で半分は嘘が混じっていると思います。そして根底では、音楽の持つコントロール不可の領域に賭けていたに違いないのです。そうでなければ『Agharta』に付きまとう不穏さを生み出すことはできない。とんでもなく耳の良い人ですから、バンドの音の細部まで把握していたはずですが、その上であえて得体の知れないナニモノかに身を委ねるところにマジックが立ち現れるのです。そしてそういう音楽は「凝集」の方向に向かうことはないのです。
「拡散」を目指す音楽はどこにも辿り着くことができない、寄る辺なさを抱えている。しかし、だからこそ時代を超えて不穏に響き続けるのです。