#01 暗い80年代と得体の知れないノイズ ~ The Stalin 『虫』 (1983) - その2
痰壺を高く掲げろ
「クソの吐き溜め、生身を夜風にさらせ」
ノーリスクは世界を歪める。誰かが衆目の前で身をさらし、音楽の暗所、いやったらしさを一身をもって引き受けないことには世界は回らないのだ。
ポストモダンだナンダと浮かれていても、駅のホームにはまだ痰壺が鎮座していたバブル前夜のこの国で、本当はまるで意味がわからないんですとは口が裂けても白状できない現代思想の語彙をさりげなく会話の中にねじ込んではいるものの、その実態はよくわからんジメジメした因習に首までどっぷり浸かっている文化的市民の面前に、ほいよっと大きな鏡を差し出しては最も見たくないモノを見せつけるという無慈悲。「オマエはいったい何ナンダ?」と切り込まれ、気付けばキンタマまで引っ張られている。スターリンを聴くということは、遠藤ミチロウに骨まで舐(ねぶ)られることだ。だから今もなお、ある種の音楽関係者にとっては忌避し、黙殺するべき対象なのだ。
「スターリンなんて聴いてるの?」という嘲笑の声がきこえる。それでもミチロウはこの「〜なんて」の領分へと必死に喰らいつく。軸足をそこから移そうとはしない。そこに居座ったまま猥雑な歌を吐き続ける。ミチロウの最期のソロ・ライブがいつ何処で行われたのかは知らないけれど、そこでもやはり「オデッセイ」は披露され「セックス、セックス!」わめき散らしていたに違いないのです。でもそのとき、膠原病(こうげんびょう)を患って以来、アコギを弾くときにはいつも腰掛けていた椅子から無造作に投げ出された思うようにならない足を、もどかし気にモゾモゾ、モゾモゾと、よじるように動かし続けていたはずなのです。貧乏ゆすりのリズムに乗って。
『虫』を聴いて真っ先に到達するP波はこのもがき、悶えの痕跡であるに違いない。「のどが切れても」なお歌うべき歌があるという崩れの気配がまず、私たちを貫くはずなのです。それに続いて「天プラ」とか「ドロボー」といったコトバたちが、頭の中で何らかの文脈を成すよりも素早く目の前を通り過ぎてゆく。リスナーはこの二方向への引き裂かれによって思考を停止せざるを得ない。その間隙に笑いが立ち込める。『虫』とのファースト・コンタクトで誰しもが笑うのは、そういう理由からなのです。
身悶えと笑いの混淆。その一点をもってスターリンとポップ・グループは同じ足場を共有しているとも言えます。しかしながら、ユーラシア大陸の両端にあって各々が突き当たっている問題の現れ方は当然ながら異なっている。マーク・スチュワートは西欧の堅牢な" Self "(わたくし)という主体の壁面をハンマーで突き崩そうと苦悶する。堅牢な自分などハナから存在しないこの国で、ミチロウは我々の生活圏、共同体、広くは" 世間 "の中心部を真下から串刺しにしようと苦戦する。意味も意義もなく、ある種の偏愛に満ちたカオスをちゃぶ台の傍からただ噴出せしめるために。その果てにかろうじて届く声があるかも知れない。そこに一身を賭ける。
スターリンとは" 場違い "そのものだ。「自分たちのことを知らない客の前で演奏すると燃える」とミチロウは言っていた。出会い頭になにか得体の知れないモノが立ち上がればそれでいい。丸尾末広が描くジャケット画によって予め告知されていたようにメラメラと妖艶に。
空耳が聴こえるということの至福
『虫』の40周年アニバーサリー・エディションにはミチロウの歌が入らないOff-Vocal Mixを収録したCDが付いている。要はカラオケ・バージョンなのだけれど、こんなものに意味はあるのだろうか?と当初は訝(いぶか)しんでいた。しかしながら、この『虫』のカラオケを聴き込んでみると、確かに色々な発見があったのです。一つは前回に申し上げた「音楽を浮遊させる」タムのギターをより仔細に堪能できるという点。
そしてもう一つ、例えば電車に乗っているときとか、部屋で掃除機をかけているときなんかにこのカラオケを聴いていると、外部の喧騒にまぎれるようにして、そこに存在しないはずのミチロウのボーカルが空耳で聴こえくるような一瞬があるのです。シンタロウが弾くベースラインの傍に見え隠れしながら低くボソボソとした声で鼓膜に触れてくるようにして。「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」で聴くことのできる、あの朴訥とした独特の福島訛りで。
空耳というのは個人の経験やその時々の体調によって様々な聴こえ方でやってくる。もちろん正規のボーカル・バージョンがフッと立ち上がるときもあるのだけれど、いつのまにか低いボソボソ声へとに落ち着いている。ミチロウと共に" 東北BIG 3 "を成しているところの三上寛、友川かずきという両人の歌の中でも極めて非言語的な" 唸り " や " えずき "のような部分を濃縮して、さらに低く低く地を這う抑揚の無さで包み上げたような、呪文のような声。そのようなものが聴こえてきます。
そこには、先ほど言ったミチロウのもがき、悶えの声をはぎ取ったさらにその底に横たわる始原の" うた "のようなものが揺らめいている。それは、晴れやかに歌っているときでさえ孤独に泥を吐き続けている江戸アケミの二重性にも通じている。ミチロウもまた泥を吐く人なのだ。あるいは「打ち捨てられた油田」になぞらえたところの一時期のPILの抑揚のない音楽とも深いところで繋がっているはずなのです。
たかが空耳。そのように聴こえるのは単に、ミチロウ/スターリンの歌はこうあって欲しいという、個人的な思い入れの反映ではないのか?と問われたとしたなら反論のしようもない。しかしながら、仮にそうだとして、それでは一体" 誰 "がそれを「反映」させているというのか?そのように考えてみたい。
私たちは日々、理性的に振る舞うことを旨とし、知的な生産活動に励んでいるようにみえて、その内実、脳みそ(大脳皮質)なんて期待したほど鋭敏でもないし、むしろボンクラなんじゃないのか?ということに薄々、気付き始めていると思います。眼に見えるモノばかりに気を取られて、微細なサインなど掴まえられないじゃないかと。私たちの身体の中のとある領域 〜 潜在意識なんでしょうかね? 〜 がそんな愚鈍な認知機能を憐れんで、音楽の底から立ちのぼる得体の知れない「ナニモノカ」を私たちにも理解できるような音像で描いてくれているのが「空耳」ではないのか?と考えてみる。
もしかしたら、音楽を聴くという行為そのものに多かれ少なかれ、そのような運動が伴っているのではないだろうか。根拠はない。そういう予感があるだけだ。むしろ、音楽とはすべからず空耳なのかも知れない。
この感覚は誰とも共有することができないのではないか?という諦念を誰しも抱いたことがあると思います。そのような不可能性を人知れず抱えながら、それでも、そこに賭けてみるのも音楽を聴くことの愉悦であるはずなのです。共感など犬に喰われてしまえ。そこには音楽と自分との不可解な呼応があるだけです。それを言葉にできないもどかしさを抱えながらリスナーの一人一人が一身をもって引き受ける。そこにこそ、ひとつの普遍的な" 美 "のカタチがフッと顔を覗かせる瞬間があるかも知れないのです。