昆虫の過変態と遺伝子発現パターンの多様化の知見を巡り歩いて
米国のケンタッキー大学の研究チームが、過変態によって発生を進めるハバチの一種Neodiprion lecontei(和名はなく、英語名はredheaded pine sawfly)の転写産物の網羅的解析をした研究成果である。2021年にMolecular Ecology誌に発表されたが、アーカイブとしては2019年に既に原文が掲載されており、検索で読むことができた。正式な発表の論文内容と変わりはなかったので、私はアーカイブのものを読んだ。
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/mec.16041
このハバチの生活環は、卵➡1齢幼虫(集団で松葉の先端を食べる、天敵からは逃げるしかない)➡2齢幼虫(集団で松葉全部を食べる、天敵に抵抗する)➡3齢幼虫(食べない、繭を作る)➡蛹➡雄・雌(消化器官はなく、生殖のみ、数日の命である。有翅だが色や大きさは異なる)、となっている。結論のみ述べると、幼虫時代は段階を問わず、転写産物の種類に大差はないが、3齢幼虫と成虫では大差があり、特に、化学受容器など、生殖のために相手とコミュニケーションをとるのに必要な形質で発現量の差がある、ということである。
表題の、適応的脱共役仮説(Adaptive Decoupling Hypothesis)は、環境変化への適応として遺伝子発現のパターンが従来の形から脱して多様化し、かつ、多様化したパターンが特定の発生時期のパターンとして固定化していくというもの、と理解できる。要するに、環境が変わり、形態が変わり、遺伝子発現パターンが多様化し、動物の変態という生命現象が確立する、という考え方になると思う。原著論文の考察では、あまりに予想通りに驚いた、と書いている。
しかし、実験しなければ証明とはいえないのは百も承知であっても、あまりに凡庸であるといえば、凡庸である。この昆虫に関して言えば、1~3齢幼虫の外観は芋虫型であり、体色や形態に大きな変化は見られないのである。おそらく、他の変態を営む動物でも、同じようなことは明らかになると思う。例えば、過変態を行うツチハンミョウやツチハナバチヤドリゲンセイでは、最初の幼虫である三爪幼虫と2齢幼虫とでは、昆虫型と芋虫型と呼べる形態の差異があるので、ハバチのそれとは比較できない遺伝子発現の差異が起こるであろう。ただ、セミやカマキリに見られる前幼虫は、形態こそは成虫のミニチュアとも呼べない魚型だが、幼虫が魚型の殻に包まれているだけであれば、遺伝子発現の差異は見られないかもしれない。
また、変態をしない生活環を持つ昆虫類も世の中にはいる。タマバエの一種Mycophila speyeriはキノコを食べるが、成熟した菌糸体を食べると変態が誘導され、性的能力を持った成体への発生を遂げるが、未熟な菌糸体を食べた個体は変態を行わず、幼虫の体のまま成長が止まり、単為生殖により体内にふ化した幼虫を多数宿すのだという。この変態の回避は雌でのみ見られるのだという。一つの種で「適応的脱共役」が菌糸の違いという環境変動によって生じているのであり、成虫になった雄と雌では形態の差異は見られないので、通常の幼虫と変態を回避した「幼虫」とでは生殖に関する遺伝子発現が異なり、これら幼虫と成虫では飛翔など形態に関する遺伝子発現が異なる、といったところだろう。参考文献のリンクを以下に紹介する。
https://resjournals.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/een.12313
せめて、働いている遺伝子の祖先が幼生と成体とで異なる系統関係にある、といった知見は得られないものだろうか。過変態という非凡な生命現象を中心に逡巡してみたが、得られた知見が凡庸であることを否定できず、そう妄想を抱かずにはいられなかった。