癩王ボードゥアン ~エルサレム王国史話~

皆様はエルサレム王国をご存じですか?

思いっきりマイナーな時代の話をいきなり書き始めて申し訳ありません。

でも好きなので書かせてください!

時代は11世紀から12世紀。日本でいうと平安時代ですね。

中東、ヨーロッパでは十字軍の時代です。

十字軍というのはそもそも何か、ということからお話しします。


教科書的な説明になってしまいますが、1095年、ビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスが、セルジューク朝が領土のアナトリア地方を占領されたことから教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端です。

ただし、ビザンツ側は、本音としては、傭兵としての兵力提供を望んでいたのですが、旗印として「イスラム教国からの聖地エルサレム奪還」を掲げました。

翌年1096年のクレルモン公会議(現在では教会会議といわれることも多い。教会会議と公会議の違いは長くなるので割愛。ちなみに教会会議はキリスト教の教義や管理上の問題を話し合う会議)で教皇は同じキリスト教国である東ローマ帝国の苦難を救って(教会はカトリックと正教会で分裂していたけど)、異教徒との聖戦が必要であり、十字軍へ参加すると罪が赦されると訴えました。


スローガンは「Deus vult(デウス・ウルト。神がそれを望んでおられる)」。民衆は大熱狂しました。それから、騎士や領主階級(の特に土地の継承のない次男、三男坊。)も。


民衆は何せ、十字軍に参加するとこれまでの自分の罪が赦されるということを理由に。騎士や領主階級は、罪が赦されることももちろんですが、一国一城の主を目指して。

多くの人たちが聖地奪還の第一次十字軍(1096年~1099年)に参加しました。

第一次十字軍も大きなドラマがあってまた面白いのですが、省略します(笑)。

結果としてエルサレムを奪還し、1099年、エルサレム王国他、トリポリ伯国、アンティオキア公国などの十字軍国家を建国します。


しかし、もともとがイスラム教徒の土地に建てた国々であり、常に戦争状態であり、慢性的な兵力不足に悩まされていました。

表題のボードゥアン4世(以後ボードゥアンと表記)は建国後75年目の1174年に王位につきます(やっとたどり着きました!)。


ボードゥアンは1161年生まれ。エルサレム国王アモーリー1世と妃アニエス・ド・クルトネーの間に生まれました。

歴史書によると、幼い頃、子どもたち同士でお互いの手をひっかきあって遊んでいても、ボードゥアンだけが悲鳴を上げなかったそうです。

先生であり、ティルス司教にして古典学者、歴史家でアラビア語学者でもあった教養人ギヨーム・ド・ティールが「痛くないのですか、王子?」と尋ねると「何も感じないよ」とボードゥアンは答えました。


医師にみせたところ、当時は治療不可能な皮膚の病であるらい病(ハンセン病)であることがわかりました。

ギヨームはさぞかし悔しかっただろうし、「なぜ?」と苦悩しただろうなあと思います。

だってボードゥアンのことべた褒めですもの。

非常に才能豊かな魅力ある美少年で、朗らかで活発で運動神経もよく、9歳~10歳くらいの段階で馬を乗りこなしていたそうです。頭の回転も素早く、人並み以上の記憶力に恵まれ、侮辱は忘れなかったが、受けた恩恵はさらに忘れることはなかったといいます。さらにラテン文学と歴史に熱中もしていたとか。

ボードゥアンはもっと知られてもいい英雄だと思います!

なにせ、1177年のモンジザールの戦いでボードゥアンは若干、16歳で当時39歳のアイユーブ朝の建国者、かの英雄サラディンことサラーフッディーン(本名ユースフ・ブン・アイユーブ)の26000人の軍を歩兵数千人、騎士475人の手勢でもって破ったのですから。

しばらくボードゥアンについての語りに、おつきあいくださるとうれしいです。



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