6/24 学園祭学園 ライブ
ダラダラと。取り留めもなく。感想をば。
先日ございました。学園祭学園のライブ一回目at吉祥寺。最近は、知り合いが主催サイドに回ってしまい、イベントを企画したりなどしてしまっている。行動力が旺盛である。かくいう私はというと、何ともなく、チケットを取り、観た。
客席の真ん中に段差があり、ちょうど見易い位置を陣取れた。久々の知り合いにもたくさんピースだけして(コミュニケーション能力が低いので、ろくに喋らずピースだけした相手がたくさんいる)、ライブに備えた。
セトリは伊賀さんに委ねよう。ぴーすぴーす(note上でしかピースできない)
さて、学園祭学園は2020年にアルバムを出したはずだった。
一番の押し楽曲と思われる、ユートピアをさがして、がサポートギター小松さんの作曲で、いまや小松さんは居ない。結果として、ユートピアだよりからの楽曲は、エニラブ以外なく、アルバム未収録曲が大勢を占めた。
ライブ後のYouTube配信にて、未収録曲ばかりをやったと自覚的な発言をしていた。その通りではあるのだが、このアルバムはいまどういう扱いになっているのだろうか、とは思わなくもない。
コロナ禍以降、なんやかんやマンションでの新生活を始め、実験という名の企画を始め、ライブを締める曲をアップデートし、相も変わらず企画屋としての青木佑磨という人は健在だと思い知らされる。そのなかで、音楽も定期的に作ってはいた。今回のライブでは、半分以上がコロナ禍以降の楽曲なわけで、算術平均で3曲/年くらいは曲を作っている。相加相乗平均(言いたかっただけ)。専業だったらペースは遅いが、ラジオイベントラジオイベントの最中での兼業作曲家/作詞家としてはこんなものだろう。鷲崎さんの新曲ラッシュを見てしまうと何だが。
さて。楽曲については、私からごちゃごちゃいうことはない。サポートギターが抜けても、阿部さんはさほど変わらず、ギターは裏でリズムを刻むものだと決めつけ、パーカッションがリズムを彩る音楽を作っていた(悪口ではないです)。確実にノレる音楽を作る。トクマルシューゴで育ったとは聴いているが、もうちょっと阿部さんの音楽遍歴は知りたい。
問題は青木さんのほうで、コロナ禍中、サーチライツ、Dawn Songあたりを作って披露したとき、ロックも変拍子も好きな人間である私から見ても、だいぶ音楽性が曲がったというか、あなたが昔好きだった90~00s邦ロックに回帰したのね、というのを感じた。
一枚目のアルバムは陰気で変なコードの曲が満載だった。これが二枚目のユートピアで、リズム隊過多の陽気なポップへと進化した。まさにユートピアをさがしてという曲は自我の殻の中から飛び出た青木さんの歌のはずだった。進化したと思った。「売れ」ることに対する意識が明確に見えた。いまだ布団の中にいる俺たちを置いていけ。飛び立て。しかしアフター小松(以下AK)で、少し殻に戻った。
これはあまりみんな言語化しないところだが、明らかに音楽性が変わった。私は性格が悪いので、「最近の音楽性についてどう思うか」を何人かのリスナーには尋ねたりして、音楽性の変化には皆気付いている。しかし言わない。また青木さんはエレキを持つようになった。しかし原則はコード弾きだ。「楽器が一つ抜けたんだから仕方ないじゃないか」というのは分かるが、変わらない阿部、変わった青木、というなかで、バンドとしての方向感がどこに向いたのか、実はよく分からないのだ。
と思って、なんか誰かブログでも書いてないかなと探したところ、5chのラジオ番組板で音楽派とラジオ派で喧嘩していた。君らはいつもそうやって喧嘩する。
その意味で。原点回帰した青木さんの楽曲と、昔の楽曲と、阿部さんの楽曲をやって、下手したら浮くことになってしまったユートピア楽曲を避けた、のかもしれない。7月に下北沢で第二弾ライブがあるので、そっちに取っておいたのかもしれない。事情は次のライブまで分からないが、いずれにせよ今回のライブは、一部の提供曲を除いてなんやかんや統一感があった。
総じて楽しめた。
とは言え、書きたいこともあるっちゃあある。どうせこのnoteは学園祭学園ファンが数えるほどしかいないので、好き放題書くのだが、やはり気になるのは阿部さんが抱える「苦肉」の部分だ。サウナとかが典型だが、阿部さんはパーカッションを叩いてラテンのリズムを鳴らしたいはずだ。器用さでいろいろなことを乗り切っているのだが、鍵ハモ弾いてから、瞬時に楽器を切り替えて、とか、ギターを持って、とか、そういう一人で何役もやる。でも本来はどれか一つに集中できるならしたいはずだ。けどボーカルがエレキを持っているので、余った音を「苦肉」で埋めるのだ。本当に出したい音はそれだったのか。パーカスばかばかやる曲じゃなかったか、とか、エレキがソロやってるとき伴奏としてのアコギ欲しくない?、とか、ウワ物がこの曲要らない?とか、一人でしか出来ないために、音に足りなさが出てしまう。このあたり、阿部さんは思うところあるだろうな、というのと、でも器用だから人が足りないながらも工夫で何とか出来てしまっている。でも理想の音を求めるなら、工夫で何とかはしない方がよいのだろう。(これは私自身への苦言でもある)
結果として青木さんのほうはエレキにエフェクターかけて、リズム感を作る方向に向かわざるを得なくなる。これもやはり「苦肉」だ。
繰り返しになるが、私はDawn Songは変拍子、ロック好き人間なので、好きな曲だ。でも、これが「苦肉」の一歩目だったのではないかとも思うと少し苦々しい。この曲、普通なら6拍子で作れる曲だと思うのですよね。
同時期に出たサーチライツも6。音楽性を散らすための工夫がDawnの5拍子化だったように見える。ので、3,2で刻んでるリズムを3,3に引き伸ばしてもほぼ違和感がない。2にすることで急いている雰囲気を出せるのはあるが、変なコードでぐんにょりしていた初期と、発想が近しい。
仕方ないのだ。一人メンバーが抜けたら、新しい音像を模索しなければならない。最適解がやや古めのギターロックだ。
比べると最近出た(出てはない)ワーズワースには、やや吹っ切れ感を覚える。ベース&ドラム&アコギ&エレキ。普通のギターロックバンドの編成としては普通だ。曲もカッコいい。ポップを捨てるのは有りだ。私は好きだし。シングルの「嘘」からポップを削ぎ落したようでもある。
しかし最近の彼らの押し曲はライカヒューマンの方だ。
「らしい」のはこっちだと思う。阿部さんがギリギリ保っている学園祭学園「らしさ」のポップ部分。しかしこれも、阿部さんはもっとパーカッションやりたくなかったか、というのが見える。
歌詞の内容も、昔よりは少し前向きな殻籠り青木さん。人を横目に羨んで来世に期待する歌は、やはりAKの暗さを持った歌詞で、俺らは共感するが、俺らを共感させていていいのか。ところでMVについて、5chのレスで「新生活」でのマンション生活が一直線上にあるのが青木さんだというのを見て、上手いこと言うなと思ったのだが、そうなのだ、青木さんという人は鷲崎さんの「顔ファン」だと言い切る人だった。誰かのファンになったとき、顔も関係値も趣味も一緒くたに愛する人で、だからマンションの生活がまんまMVになった。この姿まで愛するもんだ、と愛し方を示唆する。「君のように」愛せるかどうか、でフィルタリングがかけられている。
ライブの話からブラウン運動でジグザグ遠くまで来てしまった。言いたいことは、総じて楽しかったことは間違いないけど、AKの影響で苦肉と工夫が見えて、方針の拡散がバンドの切っ先を鈍らせていないか、という不安はまだある、という話だ。7月の下北沢ライブ、もし6月と楽曲に変化がなかったとしたらどうしよう、と勝手に不安になっている。ならんでいいのに。
期待してるぜ。