SFと神と、そしてオカルト
「神が出て来たらSFにならない」としばしば聞くけど、それはサイエンスフィクションかサイエンティフィックファンタジーかにもよるし、その神の類型にもよるから、いつも必ずそうだとは思いません。
「神が出て来たらSFにならない」とSFファンの言う理由もわかりますが、それは「どのような神か」という類型の観点が重要になるのではないかなと。そして神の要素の配分量でどうとでもなる気もしないではないです。
「SF的要素のある神話/神話的要素のあるSF」「SFファンタジー(科学的幻想物語)」「幻想科学」等々...
もっとも難しいのはオカルトファンタジーじゃないかな。オカルトとファンタジーは水と油だから、SF要素をちょいと加えてやると、いい感じになってくれる(SFとファンタジー、SFとオカルトの相性はいいので、SF要素が触媒になってくれる)。
※なお、オカルトとファンタジーが水と油だと言うのは末尾で述べてみるので、ここではひとまず省略。
※「SF要素+オカルト要素+神話要素のファンタジー」としては、新海誠の『君の名は。』と『天気の子』がそうでしたが、最新作の『すずめの戸締まり』にはSF要素やオカルト要素は無かったように観えました。扱った題材ゆえかな。地震を起こすのも荒ぶる神であり、それを鎮めるのもまた神(と人との協働)だという世界観なので当然かもですね。
※宮﨑駿『君たちはどう生きるか』が上記の「SF要素+オカルト要素+神話要素のファンタジー」であったことは意外でした。
・教義宗教の唯一絶対神
そもそも「神が出て来たらSFにならない」というドグマは「創造神にして唯一絶対神が世界の全ての真理を担い給う」という世界観と、SFが合わないという問題に思えるんですよね。そのSF作品における科学的設定も全てが“神の御業(みわざ)”になってしまうと物語としての体(てい)をなくなってしまう。
物語の中のあれやこれやの真実が全て、万能の唯一創造神の創った真理になるから、いわゆる“デウス・エクス・
マキナ“の問題となり物語が壊れる。その限りにおいて「神が出て来たらSFにならない」とは言えるはず。
結局のところこれは「宗教と科学の衝突」という、近代以降の欧米で起き続けている問題の延長だと思うのです。
・神話の神々
しかし多神教である日本でも中国でも印度でも、その種の衝突は起きてません。日本神話でもそうですが、天然自然のあれこれや自然現象をそのまま神格化した神々も多い。
(北海道を除く)日本列島を産んだ地母神イザナミが火を産んで焼け死ぬ、あるいはその火傷による産褥で死ぬというのは巨大噴火のことであり、その火神を天父イザナキが斬り殺すと真っ赤な血が滴るというのは噴出する溶岩流のことであり、大量発生する岩神や雷神は火山弾や噴火雷(火山雷)の神格化だったりします。
※イザナキ・イザナミについての解釈は多様ですが、ここではイザナミを地母神とみなした場合の解釈のひとつ。
※全ての神々が自然の神格化というわけではないことには注意が必要です。
※日本の神話学界では現状、この種の説は実は異端というかタブー視されていて、これを説くのは神話学界の外部に居る学者や研究者に限られています。なぜそんなことになっているのかは、学界に歴史的事情もあるのですが、ここではそれに触れません。
そういう欧米でも物語の創作において、万人受けさせるために、ある種の“神話性”を取り入れることならあります。
その“神話性”は多岐に渡りますが、ここで言うのは「話型」のこと。物語の一部あるいは全体に採用する場合があります(ただし既存の神話からの直接的な引用と言う意味ではありません)。
※『スターウォーズ』が全面的に神話・伝説の話型を採用したのは割と知られているのではないかと。
キリスト教社会においても、遠く昔の神話が全て死滅したわけではありません。それらは生き続ける信仰の対象ではなくなっていますが、彼らの精神文化のための大切な文化的遺産として蘇ったり、語られ続けたりして来ました。
古代ギリシャ・ローマ神話はルネサンス期を経て西洋人の上流階級の教養として復活し、後に広く民衆に普及して今日に至り、今では世界中の人々に愛好されるまでになってます。
北欧神話、特にスウェーデンのものはキリスト教改宗後も民族の国民的文学として大切に保存されました。同じゲルマン系のドイツの神話は木っ端微塵になったので原型がもはやわからず、北欧神話を参考にするほかない。この北欧神話も(世界中かどうかは知らないが少なくとも現代日本の若年層を中心に)親しまれています。
ケルト神話もまた木っ端微塵になり断片的史料しかないのが普通だそうですが、アイルランドでは土着のドルイド教の影響もあって相応に復元されて変質しながらも伝承されたようですね。こちらも民族性を越えて、現代では多くの創作のインスピレーションの泉となっています。
※対して我が国の日本神話やアイヌ神話や琉球神話はどうだろうか?とは感じますが…
話を本題に戻しましょう。
「SFと神」という命題それ自体に無理があるんじゃないかなと個人的には感じています。
「その世界の真理全てをも創り給う万能の唯一創造神」であれば、そんな存在を物語に出してしまうと科学的思考が不要になりデウス・エクス・マキナにしかならないので、SFには全くならない。サイエンスフィクションはおろか、サイエンティフィックファンタジーにもならない。
だが「神話的な神々」であれば、その限りではないはずだろうなと。
・オカルトとファンタジー
オカルトは擬似化学(似非科学)の装いを纏います。「現代科学では明らかになってないだけで、このような事実が現実にあるんですよ!非科学的に見えるのは現代科学の限界を超えているからに過ぎません!」というもの。
読み物のエンタメとして楽しむ分には無害だが、本気で信じ込むのは大変に危うい。何故ならそれにとどまらず「現代科学を都合良く使った秘密結社やそれに牛耳られた政治権力の陰謀によって騙されているのです!」というものまであるから。
オカルト大好きで学研「ムー」の愛読者でもある新海誠さんが『天気の子』で、しがないオカルトライターの須賀圭介に「あくまでオカルトはエンタメ」と言わせていたのもそれですね。
それに対してファンタジーとは、直訳すれば幻想物語。それが幻想であることは百も承知のうえで鑑賞し味わう性質のものであって、この限りにおいては、陰謀論ではない方のエンタメとしてのオカルトとは、大差ないように感じられる人も多いでしょう。
そこで河童を例に挙げるとわかりやすい。河童は幻想側の存在なのか現実側の存在なのか?
河童を妖怪として(さらには零落した水神として)描けばファンタジー。河童をUMAとして(未発見の実在生物として)描けばオカルト。
両者の視点は対立的であり、そのままでは混ざりません。
※新海誠『星を追う子ども』は、本人がそれを意識したかは彼自身が語っていないのでわかりませんが、その難しいオカルトファンタジーへ挑戦したような作品だとは言えると思う。結果としては上手く仕上がらなかった感があります。
なぜなら劇中の主な舞台である“アガルタ”とは、「実在する地下世界である」とするオカルトコンテンツの一部だから。これをファンタジーに仕立てると、実在世界なのか幻想世界なのかで作品内で矛盾・衝突してしまい、統一された世界観を(そのままでは)構築出来ないんですよね。
この点で上手く行かなかったが、世界観はともかく、新海さんが作品内の主題として取り組んだ死生観には見ごたえもあり、個人的には大好きな物語です。
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