マレーシアに住んでいた時の話
セランゴールがロックダウン、そんなニュースをみてしまった
私が住んでいたのはクアラルンプールだけど当時の出来事を日記としてつらつら書いてたのを発見してしまったのでこれも縁と少し書いてみようかなとかいてみる
住んでいたアパートにいたインド系の家族
クアラルンプールに住んでいた時、最初に住んでいたアパートはシェアハウスだった。
途中引っ越すまではそこにいたがマレーシアの大きなイメージはそのシェアハウスで塗り固められている。
朝いつもそこを出るとき、決まって奥のアパートの部屋からおじいちゃんとその孫の女の子、といった風体のインド系の二人がちょうど出てくる。
エレベーターを一緒に待ち、三人で下に降りる。
私は学校に行くのでエレベーターを降りるとバス停へ、二人は散歩にでもいくのか連れだってアパートからでると私の行くバス停の方向へ歩いていき、そして道路に沿って別れていく。
なんてことない日常風景だった。
挨拶からすべては始まった
――― Selamat pagi(おはよう)
ふとエレベーターを待っていた時小さな声が聞こえた。
下を見るとおじいちゃんに手をつながれた女の子。
―――Selamat pagi
つい微笑みながら返すと返事が返ってきたのがうれしかったのか祖父にひっついてなにがしかを話している。それをうんうん、とひとしきり聞いた後、その老人は流暢な英語で
―――いつ声をかけようかって悩んでたんですよ。おはようございます
と言ってにっこり笑ってきた。
てっきりマレー語のみか、ヒンディー語かと思ってたので面食らったのを覚えてる。
聞けば女の子はまっすぐな黒髪に憧れがあったらしい。
彼女も素敵な黒髪だったのだがインド系特有のうねりというか、癖があり(逆に私はそれに少し憧れがあった)毎朝会う私をみていつかおはよう、と言おうと隙を伺っていた、と。
私も挨拶すればよかったなあ……というのは反省。ちなみにそのあとよく声を自分からかけるようになった。
一緒に色々話しながらエレベーターを降りる。そして3人で連れ立ってバス停の方向へ。そして道路に沿って別れていくときにパッ、と手を振られた。新たなルーティンが始まった瞬間だった。
インドを知る祖父。知らない孫。
―――生まれはチェンナイさ
その老人が教えてくれた。
インドの南のほうにある大都市で彼は育ち、マレーシアに行けば仕事があるといわれてインドを飛び出した。
やがてマレーシアで同じくインド出身の女性と結婚し、ここに根付いた。孫である少女はインドに行ったことがなく、言葉を理解しても風景や習慣を理解できていない。
毎朝三人で歩きながらいろんな話をした。前日に行った幼稚園のこと、祖父の水たばこのけむりがおもしろいこと、孫がうまれたときのこと、日本で飼っていた猫のこと、とにかく色々。拙い英語を使って毎朝が楽しかった。そう思えた。
―――この子はインドを知らない。息子たちだってインドには戻らなかった
ある朝、エレベーターに乗りながら彼が言った。
―――人とのつながりがある、ないですべてが変わる。君はまだ若い。人とのつながりを絶えず作りなさい。
忘れられないバス停への道のりだった。
もうこんなこともできないのだろう
来年には彼らがあのアパートのあの道路わきを朝7時半過ぎに歩いていることを願っている
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