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舞台「逃亡」



 出演が発表された次の日に早速図書館に戯曲を借りに行って、一応2周したから「これでストーリー展開ばっちりだぜ☆」というか(琢磨さん、こここんな感じにやんのかなぁ……)とか脳内上演してたのに、実際に観てみたら結構印象異なってびっくりした。

 私は「逃亡」という言葉を「辛い現実がそこにあるから”逃亡”する(辛さが必ず付きまとう)」とマイナスに考えていたのだけれど、琢磨さんがインタビューで『逃げた先に救いがある』『もっといいところへ足を踏み出した』とポジティブな解釈をされていて、それが作劇に影響しているのかは分からないけれど、固くて冷たくて鉄とドブの匂いのする空間ではなくて柔らかい繭のような不織布で包まれてタバコの火と朝日があったかい色をしていたのは、「この作品を絶望だけで完結させない」信念のような祈りのようなものを感じた。


「ラストの演出そうくる!?」って感じで、もっと衝撃的というか「突然の終わり」「鮮烈な赤」を想像していたのだけれど、娘がタバコを一本一歩丁寧にぽとり、ぽとりと落としていくのが死者(その後の自分たち)への手向けのような、何か荘厳な儀式のように見えて、暖かい朝日に包まれながらゆっくりと死を受け入れていく・物語を閉じていったのかなぁと思った。

 琢磨さんが出演発表直後のニコ生で、「中年は作者本人」みたいな話をしていたから、初めて戯曲を読んだ時から「倉庫(物語の舞台)で娘と青年(登場人物)に干渉する中年(作者)」という見方から離れられなくなってしまった。自分自身が発する感情を登場人物に言わせている作者の業を自虐しているような……。そもそも作品全体が自虐的というか「どうしようもないよな〜」「愚かだな〜、自分含めた人間」って空気に包まれているような気がする。作中では娘を介して作者の思う女性像が語られることが多いけれど、女性性について論じてるというよりも、「それに比べて男性は・・・。ダッセぇよ〜!」の方が主軸というか。これ、なんて言えばいいんだろう……男性学?

 アフトで娘が「祖国」のメタファー、中年が文革世代だという話を聞いた(青年はそのまま天安門事件の時の学生)。最初は「今」を象徴する青年に寄り添っていた娘が次第に中年の方へ関心を寄せ始める。第1幕終盤の娘と中年の性行為は、娘の方がアドレナリンどばどば出ててギラついた感じ。今(青年)がいなくなってヤケクソで過去(中年)に飛びついている?青年と中年は思想的に対局の存在だから、娘が中年を受け入れたことを知った青年が激怒した?作品終盤の組んず解れつのシーン、戯曲では中年が「ちょっと考えて」で青年が「衝動を抑えきれず」と書かれている。青年(今)が娘(祖国)を中年(過去)から取り戻そうとしているようだなぁと打ち込みながら思った。デモ隊が求めた「民主化」の表現?すっごいどうでもいいけれど、明らかに事後ってタイミングで倉庫に戻ってきた青年が戸惑ってるシーンで勇者ヨシヒコのネットミームの「エッチなことしたんですね?」が頭から離れなくなってしまって、感情迷子になった。

 戯曲を読んだ時は、娘が極限下を生き延びるために強がっている(強く・上手うわてに見せようとしている)という印象を抱いた。でも公演では、青年を撫でる手つきが、子どもが隠れて飼っている犬を撫でるような、慈しみ慣れていないような手つきだったり、中年に自分の声を誉められてドヤ顔半分照れ顔半分な反応をしたりと「等身大」だなぁと思った。「少女」ほどか弱くはないし、「婦人」というほど世の中全部分かってるわけではないし……。聖母でもファムファタールでもない。少し「演じて」みたりはしても。

 三人とも「逃亡」する属性。作家、役者、現状を変えたい学生。青年は「民主化!」と強く主張しているというよりも、「この現状を変えたい。変えるために動かずにはいられない」のタイプだから、学生運動のトップが民主化以外の打開策を出していたらそちらを主張してると思う。

「登場人物に共感できる」≠「良い作品」でしょ(この「良い」はかなり主観的なので議論として不適切だが)。極限下に置かれた人間達の感情の揺れなんて、(自分だったらこうなるかな〜)と想像することはできても、下北沢の劇場にいる人間がそのままトレースすることはできない。シンプルに「わかってたまるか」だと思う。個人的には、「共感できるできない」よりも「ここのこの人はこんな感情」が描かれてる・読み解ける作品の方が「良かったなぁ〜」と思う。



(これは流れてきた感想に対する愚痴)女性ファン多いのになんでこんなの出るの?って役者だからだろ〜〜〜〜‼️‼️( 客に媚びてる作品が観たければ違う役者のところ行けばいいのに……。てか完全オリジナル作品じゃないんだから、求める「キラキラ✨2.5次元✨」と異なることくらい察してくれ。「無理!」ってなった気持ちを否定する気はないけれど、あなたが無理だったからって作品の価値が0な訳ないじゃん……。たった30年で古典レベルに思えるくらい、価値観って変化するものなのに、「古い価値観観たくない!」ってその一瞬の「リアルタイムの価値観」だけにこだわるのって無意味では?焚書か?手塚作品の最後の注意書きか?割とこれが腹立たしいというかなんというかものすごい苛立ってしまって、「逃亡」の感想の多くをこの感情に支配されてしまった。あーあ。

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