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-Dernier- 日本からフランスを思う

前回


日記

8/15

きょうは祝日、友達とアルザス料理のお店にはいってみる。ソーセージとじゃがいもの料理を食べた。アルザス料理はドイツに近いしドイツ料理と似ているのかもしれない。

8/16

午後の課外授業で18世紀に作られた王立の製塩所を見た。現在は使われていないが、当時は塩水の出るところから20キロほど水をひいてきていたみたいで、フランス版琵琶湖疏水だと思った。時代が全然違うけど。

8/27 (8/18-8/25)

帰国の日、日記を何日もつけていなかったので遡って書く。月の後半の方はブザンソンでの生活にもなれてきて特に特別なことはなかったので、外食した日などに限定して書く。
8/18 学校帰りにカフェでコーヒーとお菓子を食べる。正方形の茶色いやわらかいお菓子だった。食べたことがあるような味だけど何かは思い出せなかった。あんまり期待してなかったけどおいしかった。
8/19 お昼はレストランで豚肉の煮込みみたいなものを食べた。付け合せはじゃがいもとズッキーニ。おいしかった。夜はハンバーガー。
8/22 学校帰りにケーキ屋さんに行ってマカロンを食べた。夜はステーキレストランでお肉を食べる。とてもやわらかい羊肉だった。デザートのティラミスも食べたことがない味でとてもおいしかった。
8/24 昼休みにケバブを食べた。友達がケバブをすごく気にいってこの店の店員と顔なじみになっていた。今日が最後のケバブになる。学校の後はアイスを食べたり、マカロンを買いに行ったりした。モヒートのアイスを食べた。
8/25 最後の学校、午前のみで終わる。何度か来ていたパン屋でエクレアとクロワッサンを食べた。 そして今ドバイで乗り換えた飛行機に乗っている。寮からジュネーブ空港まで送ってくれるバスが学校の手違いで時間通りに来ず、危うく帰れなくなるところだったが、旅行会社の方の尽力もあってなんとか飛行機に乗ることができた。ジュネーブからドバイまでの飛行機では牛肉のミートボールとじゃがいもを食べた。今乗ってる飛行機で朝ごはんとして卵とハムとしわしわの芋を食べた。

8/26 15:15 ジュネーブ空港発-8/26 23:45 ドバイ空港着
8/27 03:00 ドバイ空港発-8/27 17:15 関空着

感想

 日本に帰ってきた。現実の国日本。もちろん自分が日本で暮らしているから、いろんな現実が帰国と同時に立ち現れるわけだけど、それだけでなく、日本という国の押し付けがましさは、ヨーロッパには、少なくともフランスにはないものだと思う。
 フランスから帰ってきてまず見えてきたのは、日本の異様さというか、特殊さだった。適切にいえば僕には日本が特殊なのかフランスが特殊なのかはわからないし、西洋と東洋、もしくはヨーロッパとアジアのどちらかが世界のスタンダードなのだと主張する気もない。ただ、フランスから帰ってきて日本って本当に変な国だなと感じたというだけだ。
 ただ、断っておきたいのは、どちらが正しいとか望ましいとかいう問題ではないということである。それは米とパンのどちらが望ましい食事か問うことがなんの意味もなさないのと同じようなものだ。どちらを望ましいと感じうかは人それぞれだろう。僕はフランスのほうが肌に合うと感じたけれど、いっしょに留学に行った人たちの中には日本のほうが(気候以外で)すべてフランスに勝ると断言する人もいた(それもどうなのかと思うが…)。
 とにかく日本は、(気候だけではなくて)人間まで湿度が高い。日本人は他人に興味を持ちすぎている。これはアメリカに行ったときもオーストラリアに行ったときも思った(そしておそらくこれは日本以外のアジア諸国にもいえる*1)けれど、日本人の他人に対する興味と期待値は他国と比べて異常に高い。日本人の多くは、たまたまそこに居合わせた人間を含めて、自分の周りの人間が何をするのかということに非常に敏感だ。そして少しでも非常識なことをする人間を目に入れてネガティブに評価し怒り蔑む。目に”はいる”のではない。目に”いれる”のだ。その行為は極めて能動的である。電車の中で自分とは関係のない席で足を広げている人間を見て心のなかで悪態をつく。自分はシートに座ることができていても関係がない。自分の利益に関係がなくても、非常識を見つけては蔑む。そして人とそれを笑う。主体的かつ能動的にそういうことをする。しかし、それはネガティブな評価のとき行われるのではない。いい人を見つけだして評価することも同様に行う。ネガティブな評価のときと同じモチベーションがあるかどうかは分からないが…。とにかく、他人を単なる他人のままにしておくことができないのが日本人である。フランス人なんかにとっては他人は他人に過ぎない。他人が多少何をしようとも、それに対してわざわざ評価をしたり、感情を湧き起こしたりしない。他人に興味がない。もちろんフランス人(だけでなく世界中の人)にも人間関係の悩みはあるだろうし、友人にはある程度の興味は持っているだろう。しかし日本人のように評価するために他人の情報を探し出したりはしない。
 他に思ったのは、フランスは「快-不快」の軸と「自由-不自由」の軸がほとんど完全に分離しているということだ。フランスにおいては「快いが不自由」な状態や「不快だが自由」な空間が存在し得る。日本においてはそれは難しい。日本では「快-不快」と「自由-不自由」は混合してしまっている。日本においては、不快な思いをしなくて済むことが「自由」である、言い換えれば、不快からの解放が自由である。またさらにいえば「快-不快」は「自由-不自由」よりも優先される。自由であることよりも不快でないことが重要なのである。これはフランスにはない感覚のなのではないだろうか。日本のリベラルが世界のリベラルと違うものに変質してしまったのもこの「自由」に対する感覚の違いが大きいといえるだろう。
 先程の電車の席の話はこことも関係している。フランスの電車やバスには日本のそれらのような長椅子式のシートはない。全ての椅子が一人用の椅子として(横には並んでいながらも)独立している。間に仕切りなどはなくてもどこまでが一人分なのかが明確に示されている。つまり一人分の空間を確立することでその空間内の自由を確保し、それを侵害しないことを強制している。その中であれば足を広げようとも腕を組もうともなにも言われない。一方日本の電車はどこまでが一人分なのかが明示的に示されない長椅子式のシートがほとんどである。乗客の自由は状況次第である。そこで重視されるのは自由ではなく、周りの人間に不快を与えない態度と姿勢である。逆に言えば不快さえ感じなければそこに自由は不必要である。

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 これはまだしっかりと考えられていない、ほとんど妄想みたいな考えなんだけど、日本でやたらと性犯罪がクローズアップされ、憎悪の対象となっているのは、痴漢や盗撮といった性犯罪以外に普段から遭う可能性のある犯罪というのが存在していないからなのではないかと思う。フランスにいると常にスリに遭う可能性を考えながら行動しなくては行けないし、ちょっとやばそうな雰囲気の物乞いが道に座ってるし、常に周りの状況に気を配って行動することになる。つまり我々から安心を奪う存在が性犯罪者以外にもいる。日本においてはそれが性犯罪者しかないから、安心を奪うものとして憎悪されているのではないかと思う。

*1よくよく考えたら言えない気がしてきました(9/5追記)

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