ツイッターやめ日記 #3

KOSSのPorta Proが壊れてからずっとヘッドフォン難民で家でしょうもないイヤホンを使っていたのだけど今日購入したヘッドフォンが家に届いて難民から解放された。ポタプロをまた買おうと思ったのだけど円安の影響なのか以前買ったときよりもずいぶん高くなっていたので同じKOSSのSportaProを買った。お金があったらポタプロの後継機と言われているKPH40がほしかった。

明日は成人式らしい。中学校の同窓会もどこかでやるみたいだ。自分は行事ごと自体は好きだけど、積極的に参加して楽しみたいというよりかは端から眺めていたいタイプだ。卑屈でしょうがない。しかし世界にはやさしい人もいて端にいる人間にいちいち話しかけてきたりする。それはそれでうれしいのだが、やつらは善意のふりをしてしゃべったらおもしろい人間を真ん中に引きずり出したいだけだったりするので注意しなくてはいけない。
この度はいろいろあって同窓会への参加は見送ったけど参加してもよかったのかもしれないなーと思いはじめてる。引きずられるか端を守るかのせめぎあいをしたかった。

ツイッターやめ日記だし、自分のツイッターアカウントの総括をしてみたい。僕は主にツイートするアカウントとして「山奥」という名前のアカウントを5年ほど運用してきた。このアカウントが山奥という名前になったのは3年ほど前だった気がするけど、そのころからこのアカウントの運用方法がある程度定まってきて、プロフィールも「脳内漏電アース発電所」というものに定着した。このアカウントの意義みたいなものはこのプロフィールが表している。どういうことかというと、僕は思考回路のどこかに不具合があるのか、考えるつもりがないことを考え続けてしまう癖がある。イメージとしてはトロッコが分岐点のの壊れてしまったレールの上で回り続けてしまう感じだ。そのせいで考える必要のないことをぐるぐるぐるぐる考え続けてしまう。神経学的にいえばシナプスの分離がうまくいかず電気信号がつながり続けてしまうということなのだと思う。必要のない電気が発生している、つまり漏電している。でも漏電はアースをつなげば感電せずに逃がすことができる。なのでツイートすることでそれをうまく逃しつつ脳内を落ち着けて、さらにそれで発電しよう、つまりアイデアや思想を作っていこうということだ。
しかしそれがどこかで反転してしまった。ツイートするためにものを考えるようになってしまったのだ。アウトプットするためにものを考えることは何も悪いことではない。むしろそれが考えることの本質でもある。しかしそれがツイッターになってしまったらある問題が現れてくる。それは表現をわかりやすく短く強いものにしようとしてしまうことだ。僕はツイ廃になってから何を見ても何を読んでもツイッター構文でその感想を考えるようになってしまった。
しかしその自覚は前からあった。僕が突然ポッドキャストを始めたのにもそういう経緯がある。つまり考えをツイートという形以外で表現する場を設けなくてはいけないと思ったのだ。ポッドキャストはじめるころ、世の中はコロナ禍全盛期で大学の授業もほとんどオンラインで人と話す機会も少なくなっていた。これではますますツイッターでしか話さなくなってしまうと危機感を覚えたのだった。それでポッドキャストをしばらくやっていたのだけど、一人暮らしをやめたこととかいっしょにやっていたやると仲が悪くなったとかでやめてしまった。
大学の授業が現実の物理空間でなされるようになってからは友達もそれなりにできたし、自分の考えを友達と話すことも増えた。しかし中高のころと比べると何時間も横断的な話題について話したりすることは減ってしまった。自由に思ったことを表現できる場所がまたツイッターになってしまった。
ツイッターを必要としてしまったら終わりだ。やめるしかない。ということで現在にいたる。

「山奥」は本来のというか普段の僕とは少し違うところがある。少なくとも僕はあんな話し方をしないし、LINEなんかでコミュニケーションするときもあんな文体を使ったりしない。はじめはそういう文体の違いだけがあったと思う。しかしいつからかは分からないが、「山奥」は総合的な僕とは違うキャラ性を持ち始めた。いうならば僕のあるおもしろい側面だけを出して、その裏で苦労している事実を隠すようになっていった。でもその傾向が強くなったのはこの半年くらいのことだ。それには理由がある。大学で対面で授業がなされるようになって同じ学科の友だちが増えたときに何故か僕のツイッターをおもしろいと言って見てくれる人が数人現れた。それまで僕のツイッターを見てくれている人はほとんど昔からの友達だけで、積極的に見てくれる人が増えるのはずいぶん久しぶりのことだった。そこで僕は「賢くておもしろい人」として好かれたいと感じてしまったのだろう。そこから極端に自分の弱みや悩みを書かなくなった。
あのアカウントはそれまで自分のことを内省して考えたことを書く場所だった。少なくとも高校に入って少し病んだりしてからはあそこは一つの自分にとっての治癒の場所だった。自分の弱みや悩みについて素直に吐露し自分を見つめる場所として機能していた。だから自分の異常さなどについても茶化したりせずに素直に書いていた。しかしそれを僕は好かれたいというシンプルなエゴから自分の弱さを隠し、異常さを茶化していた。
そのようなことにも疲れていてツイッターをやめたくなったのかもしれない。

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