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ここ数日の日記
以前やっていたツイッターやめ日記の続きみたいなことをしようと思う。というのもここ数日いろいろあったのだけれどなんとなくツイッターのにさくさくっと書くようなことではない気がしてツイートできずにいるから、ここにまとめて書いてしまいたい。前書き終わり。
いとこの家に遊びに行った。このいとこ一家はとてもお金持ちだ。叔父(そのいとこの父)が彼の友人と立ち上げた事業が成功して大変なお金も稼いでいる。家もすごいところにあった。大阪の一等地中の一等地である。そこ以外にも家があるらしい。叔母といとこ(妹)は他の家にいるようで、今回遊びに行った家には叔父といとこ(兄)しかいなかった。叔父にたくさん金持ち自慢された。お金があったらこんな暮らしもできるんやで~といわれたがこんな暮らしはしたくないなと思った。自分にとっての理想の暮らしはせいぜい年収1000万あれば実現できるだろうなと思った。そこまで稼げる予定は全くないけれど。
すごい車にも乗せてもらった。というか運転させてもらった。シボレーのコルベットである。とんでもない車だ。パワーも音もいままでに体験したことがない大きさでなかなか興奮した。これは楽しかった。しかしものすごく乗り降りがしにくい。お金があっても買いたいとは思わなかった。ほしい車がシビックから変わることはなかった。
お金を増やすことを前と考える人達とはとことん話があわない。ビジネスをバカにする気はない。ビジネスによって世界は成り立っているし、それは必ずしも卑しく醜いものではない。ビジネスモデル化すること、商業化することは持続可能にすることである。それはとても大切だ。しかしお金を増やすことが最終目的の人たちとはなにを話してもおもしろくない。そんな価値観を僕は有していない。彼らは「お金は必要であること」と「お金はあればあるほどいいこと」を混同している。お金はたしかに必要だが必要な量というのがある。それ以上をどのくらい求めるのかは人による。僕は生活に困らないだけのお金があればいい。もう少しあればうれしいけどそのために頑張って働く気はない。
しかしおもしろいのは、お金を最も効率よく稼ぐためにはどれくらいはたらいたらいいかということを考えると、死ぬほど働くのが一番効率いいということになるのだろうなということだ。叔父を見てそう思った。人が働ける時間には限度がある。しかし人が稼げる金額に上限はない。そして自分でお金を稼いでる人でたくさん稼いでる人はみんな死ぬほどはたらいでいる。少なくともそういう時期がある。僕は楽に稼げる方法が知りたくて中高生の頃に怪しいインターネットサイトや意識高い本などを眺めていたが、みんな口を揃えてたくさん働けという。最大限働けるように休息をとりましょうと書いてある。才能や知恵があっても努力がなければ意味がないのだ。
いまのところ、あんまり頑張らずにそこそこ稼げる方法としての最適解はJTCにはいって面の皮を厚くしながらサボることだ。雇用改革が起きたら終わりだけど。
権威について書いておきたい。お笑いの権威の問題が話題になっている。あれについてまず思うのは笑いというものそのものが権威主義的なものだから権威の呪縛から逃れることなんて不可能では?ということだ。しかし問題の本質はそこだけであるとは思えない。権威は要請される。この場合、権威を必要としているのはテレビである。テレビというメディアの形では権威以上に力を持てるものはない。だからあれは権威を持つものやそれに従うものの問題ではなく、テレビというメディアの問題だ。しかしテレビしか映像メディアがない時代ではもうない。テレビの権威を問題に思うならそうならないメディアをインターネット上に作ればいいだけである。YouTubeでいいならそれでいい。YouTubeは他の権威の問題を抱えてると思うが。
権威を批判するとき、中身の入れ替えだけを求めてもなんの意味もない。権威に対抗するならば違うシステムや場所を作るよりほかないのだ。