ツイッターやめ日記 #4
成人式だった。式典にぎりぎりで入ってとりあえず式を受けることはできた。よくわからなかった。
いつどの時に誰を大切にするかという問題があるように思う。いま自分はこれに悩まされている。もともとたくさんの人とまんべんなく仲良くしたりすることは得意ではないので、仲良くなったり好かれたりしているけどどうでもよくなった人とはすぐに距離をおいてきた。いま興味がある人といっしょにいたいと思うからだ。でもいま興味がある人はこの先も興味があるとは限らない。その人にむけるリソースを減らしてでも、保険としていろんな人と程よい距離感を保っておくべきなのだろうか。
この日記での文体は自分の素の文体にかなり近いように思うけど、自分はだれのなにの影響でこんな文体になったのだろう。自分てしては自分のこの文章にそんなに癖はないと思うしとても現代っぽいふつうの文体のように思う。でもただnoteで書いてるからnoteっぽい文体に寄せているだけかもしれない。実際この文章はnoteの編集画面に直接打ち込んでいる。別のテキストエディタで書いてコピペしていたら違う文体になっていたかもしれない。文章を書くときにその書くもののデザインが書く人に与える影響は大きいと思う。それはテキストエディタに限られる話ではなくて紙とかペンにもいえることだと思う。B罫ノートに鉛筆で書く文章と原稿用紙に万年筆で書く文章は同じ内容でも違うものになるだろう。
僕は批判という形を取ることで表現をするのが得意なのでいろいろ言おうとするとどうしても批判というていで話したり書いたりすることが多くなってしまう。だから批判ではない意見をたくさんかける人はすごいなと思う。
僕はこの世界に対してどう生きていくのかというのは僕にとってもっとも重大な問題のひとつだ。しかしここで重要なのはそれは僕はどう生きるかという問題とは少し違うということだ。それは単に何をして生きるかという問題ではなく、この世界に対して希望をもって生きるか絶望(もしくは諦め)をもって生きるかという問題なのだ。昔からいろいろなことについて考えてきた。あるときまではこの世界に希望を抱くことは当たり前だと思っていた。世界はよくなっているしどんどんよくなっていく。そう安易に信じていた。しかしいろいろなことに詳しくなってからそうとも言えないことがわかりだした。人類はここまでなし崩し的に世界を発展させてきた。誰一人として現代の世界の様子を見据えて目標にこの世界を作ってきた人などいない。そういう世界のなかで我々は本当に幸せになっていけるのだろうか。