今の成果は、20年後に出るからこそ。

自分は、34歳。息子は7歳。だから、子どもが心配。

 『子どもが心配 人として大事な三つの力 養老孟司著 PHP新書』を読んだ。
 以前、近所の古本屋が閉店セールをしていた。そこで、いくつかの本を選んで買った。この本に惹かれたのは、「子どもが心配」というタイトルにあった。
 私は、現在34歳。生まれてから、親、幼稚園、学校と様々な場所で教育を受けてきた。その結果、今ここにいる。
 息子は7歳。私の生まれてから7年間と、息子が生まれてから7年間は、社会の変化のスピードが違う。私は妻と共働き。自然環境での体験は失われている。休日は、Youtubeを楽しんでいる。私が子どもの頃と言えば、外遊びが主流だったような…。そんな最中、解剖学の権威である養老孟司が「子どもが心配」というのであれば、それは心配にもなるだろう。
 

「子どもは自然」では大人は?

 養老孟司は、「子どもは自然であって、自然はひとりでに展開していくものであろう。」と述べている。では現代の大人はどうだろうか。
 この記事を書いている私は、パソコンを目の前にしている。学校に行けば、パソコンを開く。余暇はスマホを見て過ごすことが多い。自然と触れ合う時間は、料理くらいだろうか。そんな今晩の料理は、電気圧力鍋を使ったスペアリブだ。これが、自然と言えるのだろうか。
 それ以外にも、自分が自然に物事を考えられていることがあるだろうか。私は、多くの「当たり前」で生きている。私だけではないだろう。多くの「当たり前」を共有しながら生きている。

何のためにデジタルの弊害を知る。

 GIGAスクール構想の元、学校にデジタルが入ってきて、3年になる。今、教室の子どもたちは、デジタルをどのように活用しているだろうか。そして、教師である自分は何のためにデジタルを使っているのだろうか。
 この本にネットの弊害として「無言化」「孤立化」「実体験の減少」が指摘されていた。
 デジタルドリルに取り組む子どもたちは、無言で取り組んでいる。一人ひとりが集中して取り組んでいるように見えるので、教師としては、子どもに学習させているように見える。
 しかし、これは方法を間違えると、餌を待つ魚のようにさせてしまう。また、一人ひとりの取り組みが絡んでいかない。前述した「無言化」と「孤立化」は進むばかりだ。
 一時期、子どもたちの理解を図ろうと、デジタル教材を作成したことがあった。それで取り組ませて分かったのは、「具体を知ってからデジタルを活用する」ということだった。「デジタル=具体」ではないのだ。これは、「実体験の減少」とつながる。どんな学習も、具体があって、それを理解して、言葉や数式、イメージ、絵図などの抽象に向かう。抽象から入ってはいけない。 

デジタルの強みを知る

 具体の経験を豊かに積んでいた上で、言語などの抽象を操作させるならば、デジタルは強い。なぜなら、本来は消えてしまう言語が、同時編集機能によって、一斉に入力・閲覧できる。しかも、それが情報として残る。これは、アナログではできない芸当だ。
 情報保管という点においても、デジタルはアナログよりも優れている。情報をクラウドに保管するようにすれば、検索も早い。さらに、端末さえあれば、どこからでも情報にアクセスできる。重たい本を何冊も持って移動するということはなくなる。
 また、デジタルは直感的に操作できる。手先が不器用な子にとっては、タップという単純な作業で文字が入力できたり、図が描けたりするのはとても便利だろう。今までは、手書きがバリアになっていた子も学習に向かいやすくなれるかもしれない。
 デジタルの功罪を多角的に学んだ上で、何のためにデジタルを使うのかを考えること。それが大切だ。

自分の頭で考えなくなってしまう前に

 我が子は、土日にYoutubeを見ることを楽しみにしている。Youtubeにある情報は千差万別。しかし、子どもたちはそれを見て、正確に記憶する。そして、その情報があたかも正しいかのように語る。
 何かが知りたければGoogleなどで検索するとよいことを子どもながらに知っている。または、Alexaに聞けば、今日の天気は教えてくれることも知っている。我が子は、生まれながらにして大量の情報に簡単にアクセスできるようになっている。しかし、その分、「真偽の見極め」ができなくなる危険性もある。
 幸い、通わせている幼稚園で、友達とお店ごっこや外遊びなどをしている。その中で、自分の考えと友達の考えを話し合いながらすり合わせる経験をしているようだ。また、そうした遊びの中で、自分の頭でしっかり考える経験を積んでいるようだ。もしも、このような経験がなければ、自分の家庭でその時間や経験を保障できるだろうか。
 こうした危機感をもって、子どもと接する必要があるのではないだろうか。

翻って、自分はどうか。

 まるで、知っているように言っている自分は、どうなのか。知っているような口ぶりで、ここまで書いてきた自分は。
 金曜日は、ついディズニーの映画を長く見てしまう。Youtubeは、とてもおもしろくて絶対に見たいと思うコンテンツでもないのに、垂れ流してしまう。
 本来、必要だと感じているアナログの時間はなかなか持てていない。
 やることが多い多いと言って言い訳をするが、その割にだらだらとする時間も多い。本当に考えられているのか。と問われたら、それに自信をもって答える自信はない。
 ただし、ちょっとした運動と、栄養豊富な食事は続けられている。
 結局、自分がやりたいことをやってしまっているのだ。使命感なんて、あるようで意外ともろい。 

未来を見据えて、立ち止まること。

 最近、古賀史健の「さみしい夜にはペンを持て」を読んだ。本当によい本であり、全人類におすすめしたいくらいだ。日記を書く目的、もっと言えば「書くことの目的」がとてもよく分かる本だ。
 それ以来、日記を書くことを続けている。書けない日は次に書いている。
 日記を書くと、自分がそのときにどんなことを考えたかが分かる。そして、それをあとでまとめて読むことで、そのときに自分が何を感じていたかが分かる。
 そして、日記は少しずつ、「未来に読む自分のために書くもの」になりつつある。だから、続いている。
 この未来を見据えながら、立ち止まる感じが、今の自分にはとてもしっくりきている。この感覚を大切にしていきたい。
 このノートは、1月に書いたものを、今見返して追記したものだ。あの時の自分の考えていたことを読むことで、あの時の自分を今、知ることができる。

今の成果は、20年後に出るからこそ。

 今教えている子どもたちがどんな人生を生きるか、どんな社会をつくるかは、20年後に分かる。そのとき、自分は、54歳だ。どんな人生を送っているか、全く想像がつかない。でも、20年後に出るからこそ、未来を見据えて立ち止まり、考えることを辞めないようにしたい。いつか、これを読む、自分のために、そう書き残しておく。

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