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『救済』2023.10.10 Mon.

ここ1年、絵も文も音楽も創作できず、就活もまともにできる自信もなく、ただアニメと映画を消費するだけでどこでも創作に吐き出すことが出来てなくて、音大生のはずなのに芸術を感じるための機能が自分の体からどんどん剥がれていくような気がする。こうして言葉にするのは私はまだ生きているんだと感じたいからってだけだ。言葉にすることで少しだけ私は息を吸えた心地がするのだ。前みたいに小説を書きたいとワクワクしたり絵を描いて満足したり本を読んで感想を書き出すみたいなクリエイティビティを取り戻したい。そう縋るように本を開いたり映画を見たりどこかへ出かけたり、写真を撮ってみたり、言葉を綴ってみたりするものの、まったく以前のような心地がしない。

今の私は誰でも出来る仕事と課題をこなしてるだけで、何も生み出してない自分があまりにもつまらなすぎてしんどい。就活も創作もどちらも出来ないのなら、いっそ創作に100割り当ててやろうかとさえ思えてきたけど、創作は創作で病むものだったよなーたしかに。創作は地獄の学校生活を生き延びさせてくれて、ただの生きる手段で現実逃避したいだけなのかもしれないなとふと思った。月一でもいいからエッセイを書くことはある意味私の救済なのかもしれない。枯れた心が潤っていくみたいに、水を欲しがるみたいに言葉を吐き出したがってるのがわかる。本音を吐き出して、それをエッセイと名づけることで、自分の感情に居場所を与えてやることができるのかもしれない。こんな心がダダ漏れの文章なんてつまらないのかもしれないけれど、ネットの片隅に自分のために書くなどという傲慢な人の書いた文が転がっていたとて許してもらえるだろうと思う。

大学には、いろんな人がいる。まわりを見ればデビューする才能を持つ者もいれば、出席ギリギリまで、どれほどされぼれるかを極めている者もいる。大学の外でいろんな活動を広げている者もいれば、コツコツと地道に勉強して努力して力をつけている者もいる。私はそのどこにも当てはまらないような気がして、私はただのつまらない人間のような気がしてならない。自分に呆れて力も出ない。

先日、久しぶりにアンパンマンを見た。ジャムおじさんがパンを作るようになった理由、アンパンマンの存在する意味、そうゆうものが美しく語られていて、眩しかった。それと同時に、つまらない考えも過った。アンパンマンたちの世界はそもそも、お金とか給料とか、商品の利益とか、そうゆう概念が存在してないから、そんな呑気なことが言えるのだ、現実世界だったら、ジャムおじさんは今頃経営困難で貧乏生活を送っているかもしれないぞ、なんてくだらない憎まれ口が頭の中によぎってしまった。私は美しい創作物に対して、こんなつまらない考えをしてしまうようになってしまったことが悲しかった。でも本当は、アンパンマンやジャムおじさんの言葉だけじゃ生きていけない現実の世界が1番、苦しかった。

日本のアニメや漫画は世界的にヒットしている界隈のはずなのに、その中身は夢のないきつい仕事をこなす大人たちがいて、悲しくなった。それでも漫画家やアニメーター、脚本家たちは、そんな現実の中を生き抜きながら、美しい創作物の世界で、夢を語るキャラたちを描くのだ。好きなこととか、夢とか、そうゆうキラキラしたものだけじゃないことを知っていながら。辛い現実のことは「大人になって辛いことはたくさんあるけど」みたいなふうに簡単にまとめて、隠して、子供たちに夢を与えるのだ。与えるだけ与えて、そのあとの保証は何もしてやくれなくて、お前も苦しめ苦しめと嘲笑っているのだ。いやそんなことは絶対にないんだろうけど。被害妄想も甚だしい。ごめんなさい。

今はとにかく、他人の悩みに「知るけ」と思えるくらい、自分の悩みにも「知るけ」と言い放てるくらいの自分になりたい。