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やりたいことってなに?

『じぶんのやりたいことだけやらない』を昨日書いて、ふと思い出しました。


やりたいことがない。


会社で、後輩やメンバーに「やりたいことなに?」と聞くと、大抵何にも出てこないんです。

今の会社はトップダウン型で、みんな割と素直によく従う。
そんな中、1on1とか目標設定とか「なにやりたい?」と聞くと、何もない。ほんとうに。

業務上は、これも問い続けることで、
自分のやっていることはなにか?
この先どう続いていくのか?
を言語化するみたいなことをやっていくことで、
3ヶ月から6ヶ月くらいすると、次はこんなことしたい、みたいなことをいってくれるようになるんです。

その点は、管理職をやっていた中でみんなの成長を感じられる楽しいことでした。

一方で、ただの人として問うてみると、これ本当に難しいなと思ったんです。

他者からの評価

会社で許される行動の範囲って、
「周囲から評価されること」一択なんですよね。
それによって生きるスキルは滅茶苦茶身について来たけれど。
ある程度それもやりきったら、「次のステージ」に進んでもいい気がします。

若くて長い学生生活の中で、「やりたいこと」って問われなさすぎるな、と。幼稚園の頃に何なりたい?「お花屋さん」みたいな以降、問われることなく第一志望は?みたいな感じ。
しかも学校でも会社でも規則を守り、言われたことをやることに特化させられてきてるから、「自分が選択して自由にやっていいんだ」と思える人って会社に入ってきてる時点で本当にもう少ない。
(奇跡的に自分のやりたいことと出会った人は、その道に進んだり、起業したりするし)

前職は起業前提で入社してくる人が多かったので、とにかく自分のやりたいことがあるひとが多かったなとも。

「やりたいこと」は「ないほうが都合がいい」

そうそう、それで、
「やりたいこと」ってそんな学校や会社では、「ないほうがいいもの」になっていると思うんです。悲しいことに。

とにかく他者評価がないと自分の価値がないと思ってしまうから。
価値がない自分には、やりたいこをやる権利なんてないと思ってしまうから。

目の前の試験、こなすべきタスクをクリアしてくためには、
やりたいことは、いったんなきものにしてしまう。

やりたいことは、これをクリアしたら、
これができるようになったら、
自由に時間が使えるようになったら、
お金が溜まったら
できるご褒美のようなもの。
いくらでも先送りして、結局やらずに一生を終えることさえある。

そうやっていくうちに、
やりたいことを伝える内なる声はどんどん小さくなっていて、
どうせ聞いてくれないんでしょ、ともう絶対に言わなくなる。

将来のために今を消費してしまって、
来たるべき未来じゃあなにやりたいの?って言われてももう思い出せないから、
とりあえず食べてくためにも、つながりのためにもずっと働くのがいいよね、みたいになっていて。
働くこと自体は悪いことではないけれど、手段が目的の座を奪ってしまっている。

でもね、絶対にあるんです、やりたいことって。
それは、起業してサービスを拡大して社会に影響を及ぼす、とか
お金持ちになってハワイで暮らす、とかそういうことではなくって。
人から見て「それは素敵だね」「羨ましい」と言われることでなくていいのよ、と。

他者評価から、自分自身を価値のある存在だとただ知ること。

私は私のために生きてきて、それだけ価値があり、
私がやりたいことをやることが、世界の喜びになる。

ただ、大切な人と安心なコミュニティにいたい、
とか、愛情を感じながら人とつながりたい
みたいな根源的な願いを満たしてからやっとやってくる何か。

願いから実現したい世界に自分がなる、ということ。

先行き不透明さが怖いから、こんなサービスを、とか
将来への不安があるからこんなインフラを、ということからだけでなく。

見たいと思う世界の変化に、あなた自身がなりなさい

マハトマ・ガンジー

最近この言葉が私を揺さぶるんです。

他者評価を軸にしていたら、一生安心なんてできないよね、という真実が私を楽にしてくれました。
こういうキャリアで家族を持って、これだけ貯金できて、みたいないわゆる「目標」をクリアした先にも、全然安心を感じられない。
多分、1億円宝くじで当たっても、安心できないと思う。(ほしいけど)

結局、他人のOK/NGの軸で自分を規定する世界に窮屈さを感じて、
NGくらわないための防御壁が自分の檻になっている、という状態なんだと感じています。

そんな認知の世界じゃ、やりたいことなんて怖くて言えない、は当然だよな、と感じたのでした。

なんとなくですが、
みんな安心して本音で語り合い、やりたいことをやっていく、
そんな世界の変化を、私は見たいんだな、と感じています。