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キャリア棚卸(1社目:山武ハネウエル)
まずはキャリア棚卸 1社目について(覚えてる範囲で)語ってみます
1社目は1992年、新卒採用にて山武ハネウエル という会社に入社しました
何も知らない大卒をしっかり育ててもらえたと思っています
入社のきっかけ
大学では機械工学を専攻しましたが、遊んでばかりいたので成績も振るわず、研究室の教授を頼ることも難しく自分で会社を探して応募しました
当初は誰でも知っているような有名企業ばかり見学に行きましたが、どこもピンと来ず、あるOB訪問で出会った方がプラント建設のエンジニアで、「中東の現場を立ち上げてからモルジブで有休消化兼ねて遊んで帰ってくる」話に惹かれて、プラント建設関連に集中して応募
日揮、千代田化工建設、横河電機そして山武ハネウエルを受験し、合格した横河電機と山武ハネウエルから外資系風味に憧れて山武ハネウエルを選びました
結果的に、成績上位者の進んだ有名企業はいくつもリストラがあったり、仮に行けたとしても中堅大学卒では輝けなかったかもしれず、これでよかったと本当に思っております
また1992年はバブル最終年(1993年の場合も)と言われており、大学院に進んだ友人はみな就職に苦労していましたね
ちなみに山武ハネウエルの現社名は、アズビルです
入社3年目くらいまで
FA(ファクトリーオートメーション)のエンジニアリング関連の部署に配属になり、仕様書や提案書作りから始めました
まだ時代はPCでの作業は限られており、机上で紙と鉛筆が主力 私はワークステーションでそれを清書するような仕事からスタート
いまも忘れられないゼロックスの”J-STAR”というワークステーションを活用していました
VISIOやパワーポイントに似たツールで、CAD的な機能も持っておりとても使いやすかったですね
表計算やワープロソフトなどはマーケティング部がもっていたマッキントッシュ(!)でのみ使えたため、順次 一太郎、ロータス1-2-3、Netwareなど初期ユーザーとしていろいろ楽しく導入したことを覚えています
顧客との電子メールのやり取りも一部始まっており、独立の電子メールシステムを自部署のみ入れた(名前忘れた)が、何人も内部外部の女性とのやり取りに使っており、ハングアップのたびに誰ともなく急いでリセットしに走る姿が見られたのんきな時代でした
話を戻すと、いくつかの自動車や電気電子、食品薬品などの工場に監視システムを提案設計製作立ち上げを行う仕事をしていました
出来たばかりの事業部のため、年齢層も若く皆夜中や休日まで楽しく働いで残業代がっぽりの時代でもありました
あるプロジェクトで、納入後にトラブルが多発し、一介のエンジニアでしかなかった私は、特にソフトウエアの外注先のエンジニアリーダーと協力して解決することになりました
何度も現場でバグつぶしに奔走し、お客様にも謝罪相談修正の繰り返し
しかし結果としては、外注先が悪いというよりは自社の設計仕様書に問題があったことが発覚します
最終的に外注先の途方もない努力のおかげでトラブルは解決したものの、その設計書を作成した先輩は会社を辞め、私は今後のキャリアに多大な影響をもたらす学びを得ることになりました
中堅になってから
1年ほどプラント建設の顧客企業への出向を経て、プロジェクトを自分で引っ張る立場になっていました
そのプラント建設の企業でもプロジェクト型組織や、ゼネコンスタイルの仕事のやり方などを大いに学ぶことができましたがタイミング悪く暇な時期が多かったですね
出向から復帰後、私は当時建設が急増していた最先端半導体工場向けのシステムを担当することになりました
目標はバグゼロとそれに伴う工期短縮、コスト削減でした
行ったやり方は「仕様書≒生成物(ハード、ソフト)」「入出力全点チェック」「プロジェクトマネジメント手法の導入」でした
今思い出しても画期的としか言いようがないほど完成度の高い仕様書、外注先との透明性の高いやり取り(仕様やコストも)、そして社内検査での全点OKをもとに、現場での作業は最小工数で行ったうえで顧客へのスムーズな引き渡しも可能にしました
多大な助言をしてくれたのは、先述のソフトウェア会社リーダーと、ハード制作会社の社長さんでした
こうして私はそれ以降のキャリアの礎となる成功体験を得、2000年半導体バブルと2001年の同時多発テロをきっかけにした半導体バブルの崩壊まで、国内でのリピートオーダーだけではなく中国へのシステム導入も含めとても仕事でうまくいっている時期を過ごすことができました
またこの時期にプロジェクトマネジメントの勉強を社内有志で行い、資格の取得まで行うことができました
バックトゥベーシック的な価値観はこの時期に醸成されました
控えめに言ってもプロジェクトマネジメント(PMP)とその教本であるPMBOKは、最高のビジネスのお手本で戻るべき場所でしたね
理論より実践に重きを置き、「おばあちゃんの知恵」のような内容ばかりでした
成長したい
こうして、PMPとちょっとした英語での仕事も経て、入社動機だった「グローバルに仕事がしたい」が再度心に差し込むようになりました
そもそも山武ハネウエルは外資系ではあったものの基本的に日本の会社で、海外で仕事をできる人はほんの一握り、半導体バブル後一気に暇になってしまったこと、結婚準備に入ったことなどもあり、2002年日韓ワールドカップのボランティアへの応募、そして父親の死去などを経て、2004年に幸運もありドイツ企業の日本拠点へと転職することとなりました
まだまだ成長したいという思いも強く、コンサル(アーサーアンダーセンとか)も視野に入れつつ、偶然みたリクナビ(多分当時はYahoo!リクナビ)で「営業もわかり日本顧客もわかる」「技術にも明るい」「英語もできる(これはのちに苦汁をなめる・・)」という募集要項に惹かれて、五反田(当時)のオフィスに受験に赴きました
結果として約12年半勤務しました
勤務地は今は無き蒲田工場、神奈川新町のテクノウエーブが主でした
自分のキャリアの大きな土台を作ることができて本当に感謝しています