見出し画像

「一 二〇〇七年八月」 / 『アデュー・ディアコクーン(仮)』【小説】

「先輩ちょいと、ご覧下さいよ。あっしに言われずともお気付きでしょうがね、ひとまずここはもろともに」
 日本語なる限りなく曖昧な言語が確かな形態として現世に存在すると定義付けるのであれば、その歴史へ払われるべき精神的配慮の適切なあり様はそれなりに把握しつつも、その本質をほとんど無視して小馬鹿にし、好きなように言葉を用いよう、そういった態度を、若いうちはとり続けることに私は決めたのだと主張せんばかりの舐めた口調で、繭美はこの記憶の持ち主あるいは創造主であるうだつの上がらない年上の男に話しかけ、本日の会話の口火を切った。結局、繭美のふざけた話し言葉はこの一度の発言をもって終わる。何故なら特に上記の狙いはなく、言葉を吐いた瞬間に自身が何を口にしたかさえ興味を失うような、奔放な性格を彼女自身が有するためだ。脳裏に焼き付くこの二人を取り巻く状況のあらゆる細部は、厳しくも眩しい清潔な光の炎でめらめらと際立つ。まあ人間、時間が経ち第三の証言者が他に居なければそのときのことなど何とでも表現してしまえるのだが、と年をとった男は失笑をまじえ、ささやかな本音を漏らした。
 元号が新たに令和へ切り替わろうとも不安定さの上に成り立つ己の生の奇跡を疑うことなく生き続ける一人の男が、ほんの十数年前の高校時代の記憶の移ろいの、その奔流にのまれながら、繭美が指差す方向を目で追った。
 見下ろす先に陽当たりの悪い中庭の景色が広がっている。コの字型の校舎の白壁に三方を囲まれるこの空間は、学校関係者あるいはそれ以外の人々の目にほとんど触れられることがない。薄暗くじめじめとした、ひと気のない閉じられた場所だ。教員の自家用車や化学部の花壇、ごみ捨て場、何物が潜むか不明のまま何年も経過する濁り池がある。基礎がだらしなくもどこか緊張を隠せぬ面持ちの男と一人の女ーー繭美が中腰で居座る演劇部のベランダは、この寂れた中庭に面する校舎の裏側、三階に位置していた。
 ここからでは目の届かぬ校舎の表側、校庭の方角より各運動部の威勢の良いかけ声や下校を始めた生徒諸君の騒がしい声、敷地に面する道路を走る自動車の音が遠く響いた。もっと美しい音響が存在した可能性もあるが、男はそれほど仔細に当時の状況を思い出すことが出来ない。記憶には限界があり、美化する作業に没頭することを避けねばならないと心がけているのだ。
 中庭には、誰も利用することのない朽ち果てた屋外トイレが建っている。利用者の多い校内トイレで排便することを避ける生徒が中に入ると、およそ清潔感と程遠い内状に辟易し、用も済まさずにすぐ立ち去ってしまういわくつきの設備である。
 繭美が指差したのはトイレ小屋の外壁の側、校舎の壁と挟まれたきわめて狭い空間に立つ、制服姿の女子生徒と学校指定ジャージ姿の男子生徒だった。遠目に見ても、およそ何らか行為が始まる予感を撒き散らしているのが判る。人通りのない中庭は、学生同士の不純異性交流の温床と化していた。
 便所脇で身を寄せ合う二人にとって、こうして他人に営みを覗かれている状況は想像も出来ないことだろう。繭美はここに来る男女のはしたない行為を眺めて時間を潰すのが趣味で、恥ずかしくないふりを貫きそれを視界に入れようとはしない男の頑なな姿勢をいつも冷やかしては笑っていた。
 野良猫も寄り付かない不衛生な中庭のトイレの側で、見知らぬ二人は見つめ合ったまま会話もせず、まるでベランダにいる男と繭美の合図を待つかのように互いに踏み止まる。何もせずに帰るならそれはそれで助かるわ、男はそう考えていた。
「やあん」
 繭美は両の手の平を顔前で交差させるふりをして、指の隙間から男の様子を窺いつつしょうもない声を上げる。恋人たちの緊張にあてられ沈黙をきめる余裕なき男の態度に相反し、繭美は全く動揺していないのである。
「そろそろ申し訳ないだろ、中戻るぞ」
「あれ、この後どうなるんでしょう」
「どうなる」
 繭美は網の目のように結んでいた手を開き両腕を頭上へ掲げ、背伸びをする。
「はい。年下からOL、年配の異性らと身も心も親しい関係を重ねて生きてきた先輩からみて、あの異性愛カップルは性的に未熟に映ってしまうかもしれないので、不愉快な気持ちにさせてしまうことは想像に容易いので大変恐縮ではあるのですが、ああいった未熟な手合いはこの後、プロセスとしてどう行為を先へ進めるものなのでしょう」
「饒舌だよね、設定が投げやりな割にさ」
 繭美は隣に居る木訥を絵に描いたような男に恋愛経験がないことなど確信しているが、知らないふりをして底意地の悪い質問を投げかける。真顔をこしらえることこそ、冗談を口にする一般的なマナーと信じたふるまいをしている。男は今、この状況を疑似的に恋愛トークバラエティ番組の撮影現場のようにシミュレートし、これぞ平然といった顔つきを維持しながらも、なんとか繭美の発想を超えるような作り話のルートを築きたいと、一生懸命奇抜な方向に頭を回した。この発想自体ら未熟以外の何物でもない。
「稚拙な試合を見せつけられているようなものだけど、的確な解説というものは決してその営為を乏すことなく、老若男女皆にその面白さを伝えるものなんだよ。彼らは先ず、そう、お互いに目を離さないまま、確かめ合うように手を片方ずつゆっくり繋ぎ始める」
「なるほど、確かめ合うように、このように」
 背伸びをしていた繭美はふいに両腕を下ろして男と正面から向き直る形で座ると、両手をゆったりと握り合わせた。指と指の間に指を絡め、密着させる。繭美の人差し指の爪先が、男の手の甲に突き立てられる。男は飛び上がりそうになる衝動を、ひりつく皮膚の感覚を、全身全霊で押し殺した。年上の、先輩としての威厳を保たねばならない。もはや冷静な感性を保てない男は、校長室にある歴代校長の肖像写真を想起し、色褪せた顔たちと同期という設定をイメージの源泉として彫刻のような表情を作るのを試みる。
「先輩」
「ん、何だろうか。何だよ」
「もう一分は黙ってらっしゃると思うんですけど。あー、ほらほら」
 繭美は男と相対したまま握り込んだ手は離さず、顎で中庭の二人を見るよう少し体を捻って合図を寄こす。男は子供のように素直にそれに従い首を動かしたが、そこで密やかに発生した主従関係には気付く余地がない。
 前髪に女性物の紺色のヘアピンをかけた平成代表の若者文化を体現する男子生徒は卒業アルバムとアイロンを駆使して繊維を殺しあえてぶかぶかに改造したジャージの袖をたくし上げ、その日焼けした筋肉質な右腕をいかんなく披露し、見事なまでに原色に近い茶髪の女子生徒のぱりぱりに直毛なヘアーを柔らかく撫でる。女子生徒は視線を地面に落としたままはにかんで、男子生徒はやべえやべえべと不作に喘ぐ百姓のように口をぱくぱく可動させる。男はこのとき、空しくなるほど読唇に自信を持った。
「動いたな」
 なんでもない口ぶりで二人の様子を平易な言葉で共有しようとした男の頭を、繭美が中庭を見下ろしたまま雑に撫でる。状況が理解出来ない男の「動いたな」が見事に宙に浮く。
「ちゃんと見てないと良い試合を見逃しますよ!」
片手が自由になったはずの男は気が動転し、身動きもせず、頭上の腕を払いのけることも叶わない。あまりにも恥ずかしい姿をさらす過去の自分自身に、令和の社会を呼吸する男は冷や汗をかき、生欠伸が出そうになった。
 ヘアピンとストパーが、ついに両手を正面から握り合わせ、お互いの顔を見つめて一対一の距離を近付ける。
「二年先に生まれてるんだから、こうなる予想ぐらいつくんだわ。こんな行為、誰がやったってパターンだし」
 二つ下の後輩女子が気まぐれに用意した恋愛おばけ設定を忠実に守らんとする男。繭美は無表情で男の赤面を見つめた。男は、繭美の鋭い眼と中庭の男女へ交互に視線を送る。繭美の手の平は中心部分が温かく、指先が冷えている。中庭でさえかなり暑くいつの間にか男のほうは大汗をかいていたが、真夏であっても繭美の手は死体のように冷え切っている。男はそれを、寂しい事実であるように感じた。
「おっぱじまってます」
 湿った灰色の中庭に佇む恋人らは、周囲を気にかけながら口づけを交わしている。
「あはー、強め」
 ほんの一言感嘆の意を表し、他人の愛の相互行為を凝視する繭美。二人はなかなか唇を離さず、頭が傾き、口元が開き、頬がうごめき始める。本格的な接吻にスタイルが切り替わっている。
 繭美があまりにも堂々と凝視するため、男はこの状況に違和感を覚えなくなっていた。繭美は手を離してくれないが、まずはこの場を切り抜けたい。彼らの邪魔をしたいとも思わない。トイレ側から演劇部のベランダは見えない角度でもない。向こうが気付けば、この覗きはすぐに気付かれてしまう。
 男は柄にもなく繋ぎ合わせた手の平の発汗が気になった。果たして心臓の鼓動はださめに伝わっていないか。鼻息が荒くなっていないか。肌は汗ばみ、制服のワイシャツは少しずつ透過して地肌を透かした。繭美は汗一つかかず、涼しげな表情を浮かべる。こけしのようなボブヘアからのぞく健康的で艶めかしい頬が、校舎に遮られる控えめな夕陽に染まる。思い返せばあの美しさは他に例えようもない。
「田舎はすけべが進みやすいなあ。先輩もなされたことあるんすか」
「すけべってあんま言うなな。もちろん、昔の彼女と付き合って、初日に」
「最初のキスがディープ。凄いですね、ませてますね。何年生のときですか?」
「あまり人には言わないけど、中二だったかな」
 回答がチープすぎて会話の質が微妙だな、と男は反省しかける。
「早、私より一年も早い」
「マジ!」
 男は図らずも大声を上げた。繭美が「やべ」と笑いをこらえ深く屈み込む。状況を察知した男もそれにつられすばやく屈む。今ベランダから顔を出すようなことをすれば、絶対に彼らと目が合ってしまう。このままどう動けばいいか分からない。まだ手を離さない繭美は会話を続ける。
「いやいや、真面目に慌てすぎですよ」
「ごめん。正直、ああいうの直視すんのも初です」
「知ってます。私も嘘つきました。あんなのやったことありません。はたから見てあんまり、んー。美しくはないよねえ」
 男は、繭美が油断したときに発する、まるで同世代間で使われるようなため口を心から気に入っていた。年功序列を重んじる彼女であっても、抑え切れない親密さが噴出した現れのように思い、たまらなくなるのだ。今思えば、彼女の口癖も最後まで直らなかった、ら男はふと、心がどうにかなりそうな深い陶酔感に襲われた。無性に、今、彼女に対して何かしてしまいたいことがある。現在の男だって同じ感情を抱いた。そのとき繭美と男は間違いなく見つめ合っていた。二人の視界の隅で、中庭の二人が問題行為を加速させていくのが映った。
 ベランダで身を低くしたまま、過酷な時間は過ぎ去りつつあった。
「あの二人もういなくなりますよ。中、戻りましょうか。今日中に仕上げられそうな台本があるしそれ書いちゃいたいです」
「そうね、やるべ」
 繭美は男の手を離し立ち上がった。スカートの生地がベランダの床面に擦れ汚れた箇所を手ではたき、部室へ出入りできるガラス戸に手をかける。安堵の表情を浮かべる男は、自身の昂ぶりに整理をつけるため、なるべく遅く立ち上がった。戸に手をかける直前、繭美は男の方へ振り返った。
「手、貸してください」
「なんで」
「いいから早く、早くー」
 繭美は返事を待たず、男の左手をそのまま自らの口許まで近付けると、手の甲にすばやく唇をつけた。男はあえて抵抗しない。一度目は短く唇を乗せ、二度目は十秒。呆気にとられる男は無心でその様を眺める。繭美は息継ぎをして手を離した。
「私のおててにも是非やってみましょうか」
「勘弁して、お願い勘弁して」
「二度と嘘なんかつかないで下さい。私の過去も知ろうとしないで」
「了解」
「誰も得しませんし、問い正されたら絶対良い気分はしません。嫉妬してるんだ、とか言う喜ぶ女もいるっちゃいますが、そういうのは大抵ろくな人じゃないですよ。さあ、エアコンの効いた室内で台本書きましょう」
 いま思えば繭美も十分に世間知らずなガキだったはずだろう、言葉にはやけに説得力があったが。しかし、男は繭美のそれまでの人生を細かに知っているわけではない。すでに、本人に問いただすことも叶わない。大勢の運動部員のかけ声が絶えず敷地内に響き、吹奏楽部の練習音やコーラス部の合唱、蝉の声や町内放送も耳に入り始める。夕方五時の鐘が鳴り、毎日町に流れるあの感傷的なメロディが聞こえる。東北の夏だって体に堪えるものがある。二人以外誰もいない演劇部の部室で、繭美と年上の男は来たる秋の文化祭上演に向けた準備に取りかかる。男が唇をつけられた手の甲を西日にかざすと、わずかに残る繭美の唾液がうっすらと反射してか細く煌めいた。
 この演劇部に在籍する部員で積極的に部室へ顔を出すのは、三年生の彼と一年生の彼女、繭美の二人だけである。他の幽霊部員は結局あの一年弱の間に一度も顔を出さなかったのだ。二人は、放課後のささやかな空き時間をいつも同じ部室で一緒に過ごした。

いいなと思ったら応援しよう!