「僕のランラン人生」を記すにあたって
初めて参加したあるマラソン大会で、知り合った男性が、こう言った。
「去年は5.3㎞だったけどね、今年は8.2㎞を走ってみることにしたんだよ。」
結構高齢と見える彼が、一気に150mを昇らなければならないという本大会の、最長コースを走るというのだ。
「僕は、60歳から走り出したんだよ。退職してからだもの。いつの間にか83歳だよ。まあ、ランニング人生23年というところだな。年だからなあ。でもね、100歳まで、何とか走ろうと思ってるんだよ。」
驚いてしまった。その時、私は56歳、彼より27年も若いことになる。
私は、彼と一緒にスタートし、しばらく肩を並べて走った。
「あのねえ、僕はゆっくりだよ。ゆっくりだよ。あなたは、自分のペースでどんどん行きな。」
「はい、では。」
と、言って、先に行くことにした。
折り返して復路を走っていると、彼が走ってきた。私のことを覚えていて、笑顔で手を振っている。
「さすがに速いねえ。その調子で頑張れ。」
私もすかさず、
「はい、あなたも頑張って。」
と、手を振ってすれ違った。
彼との出会いに、何とも言えないすがすがしさと、嬉しさがこみ上げた。
そして、こう思ったものだ。
「自分は83歳まで、あのように健康に生きていられるのだろうか。生きていたとしても、走り続けているのだろうか。とにかく、彼のように生きたいなあ。」
と。
彼は、100歳になっても、走り続けているような気がする。
私が走り出したのは、30歳を過ぎた頃からだったと思う。走るのは、仕事が終了した後、夜の時間、休業日等々だ。
妻も物好きで、いつの頃からか、走り出した。仕事もしていたから、トレーニングは夜の時間。子供が自転車で伴走してくれるのを、楽しんでいたようでもあった。
日曜日の都合のよい日には、ときどき、河川敷等を二人で走るようにもなった。
夫婦で走ることが、共通の趣味となり始めた頃、初めて、大会にエントリーした。それは、1994年5月、山形県飯豊町開催の、「白川ダム湖畔マラソン大会」だった。私が46歳、妻が43歳の時だ。
以来、あちこちの市民、町民マラソン大会を走るようになった。
そして、2005年10月、私が57歳のとき、「ぼくのランラン人生」という自費出版本を発行した。
先に述べた83歳のランナーのことは、その本の巻頭に記したものだ。
お互いに仕事があるから、限られた中ではあるが、いつの間にか、エントリー数は、約200回程になっていた。
交通手段、宿泊、ついでの観光等についての手配は、妻がすべてやってくれた。私はまるで、ツアーコンダクターがついた市民ランナーだった。
「趣味は何ですか」
と聞かれると、
「走ること」
と、答えるようにもなった。
走るのは、ほんとうに楽しい。それぞれの大会は、関係者をはじめとして、多くのボランティアの方々の協力があって開催される。そのお陰で、ランナー達は走ることを楽しむことができる
しかし、2020年頃から、コロナ禍の中にあって、各地のマラソン大会は、中止を余儀なくされた。
今では、私達も70歳代に入っている。身体の老化も少しずつ進みつつあり、怪我もしやすくなってきた。走るスピードもどんどん落ちてきた。
そんな折、2005年に書いた本を、改めて開いてみた。参加したすべての大会を記載したものではないが、それぞれの大会が懐かしく思い出されてきた。
そこで、その原稿を、加筆、修正して、「僕のランラン人生」として再編集することにした。
大会期日は古くなっているが、思い起こしながら、下記のようにまとめてみた。
<構成>
「僕のランラン人生」を記すにあたって
各地の大会より(写真)
1.北海道1 2.北海道2
3.東北地方 4.山形県1
5.山形県2 6.関東地方
7.中部地方 8.関西地方
9.九州地方 10.海外
以上10地域39大会
次回は、「写真による各地の大会より」についてです。
2021年12月 香坂文夫 記