僕のランラン人生9 九州
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9-1 金栗四三翁マラソン大会(第19回)
~ 体力 気力 努力、爽やかな汗、走る喜び ~ 平成14年(2002年)11月3日
熊本県玉名市和水町
平成14年(2002年)11月3日、文化の日、熊本県玉名市和水町において、日本のマラソン創始者、金栗四三翁を記念するマラソン大会、「金栗四三翁マラソン大会」が開催された。
金栗四三氏は、1891年、玉名市和水町に生まれ、1912年、日本人初のマラソンランナーとして、ストックホルムオリンピックに出場した。今では、玉名市名誉市民となっている。
金栗四三氏を記念して、走る喜びをみんなで味わい、オリンピック選手も育てようと、町上げての開催となっている。
和水町に出かける数日前、電話がかかってきた。遠方から御参加される中から、私達に選手宣誓をして欲しい、ということだった。
いろいろな大会に参加したが、選手宣誓は初めてのことだ。
大会の前日、私達は、仙台空港から福岡空港、福岡空港からは、レンタカーで九州縦断道を走り、和水町に到着した。約5時間で到着した。
高速道路や新幹線、飛行機等が完備された今の時代だからこそ、そんな早さが可能となった。
<種目>
夢世紀「みかわ」コース 健康の部(1㎞))
ストックホルムコース 健康の部 競争(3㎞)
アントワープコース 健康の部 競争(5㎞)
パリコース 健康の部 競争(10㎞)
参加者は約1000人
小中学校の生徒達は、ほぼ全員が参加している様子だ。
私達の選手宣誓の時間が近づいてきた。
選手宣誓は、妻が作った原稿を読んで、何回か練習をした。何でもないようだが、緊張するものだ。
「宣誓、私達選手一同は、日本のマラソン創始者、金栗四三先生を生んだ、和水町を走ることに喜びを感じ、今日の大会を、精一杯、頑張ることを誓います。」
2002年11月3日
香坂文夫、美恵子
大会会長となる池上緑良町長さんの挨拶が始まった。
「皆さん、ようこそ和水町にいらっしゃいました。遠路はるばる山形県米沢市からも本大会に参加されております。遠いところ、ありがとうございます。今日は、私も走りますから、皆さんと一緒にいい汗をかきましょう。」
運動着姿での、挨拶だった。開会行事が終了すると、すぐさま、御自身もランニングウエアになり、町民と共にスタートラインにつかれた。町長が一緒に走る、というだけで、町は盛り上がる。町長さんの姿を見て、町や市のリーダーをする方は、若い方がいいな、と思った。
いよいよ、スタートだ。。町長さんもスタートした。
ストックホルムコース(3㎞)健康の部だ。大会会長の町長が自らレースを走るというのは、過去何回か参加してきた大会の中で、これが初めてのことだった。
ネクタイをしめた正装で挨拶し、それが終了すれば公用車でもどる。そういうことが多い中で、若々しくて、いかにも健康的である。ランナーとしても、魅力的で、とても素敵な町長さんだと思った。
私は、パリコース(10㎞)の部、妻はストックホルムコース(3㎞)だ。
山道も少しあるが、おおむね平坦なコースとなっている。ほぼ、快調に走ることができた。
ちなみに、記録は、
私 46分11秒(10㎞) 妻 16分56秒(3㎞)
だった。
まあまあ、記録。これも選手宣誓したことによる。
記録については、40歳代の時代には、10㎞は45分を切って走ることも多かったが、50代になってからはそれが難しくなってきた。体力的な問題もあるが、最近では、ゆっくりと長く走り続けられるように、と考えるようにもなっている。
いただいた遠来賞には、各種商品と炭が一袋入っていた。炭は、和水町特産品となっていることがわかった。
12月末になると、和水町から、みかんと、公報紙「みかわ12月」が送られてきた。マラソン大会のページには、何と私達の宣誓している写真が掲載されているではないか。印刷に使った写真も同封していただいた。正月には、事務局から年賀状までいただいた。ますます、忘れられない大会となった。ほんとうに丁寧な気配りに感謝した。
ところで、私達は、福岡までは、「Sweet100結婚記念日割得』という格安航空券を利用した。
この航空券、先着順だから、該当日朝一番に電話申し込みをしなければならない。毎日、仕事をしている妻は、主婦業もして、けっこう忙しい日々ではあるが、申し込みの日には早起きして、朝一番の受付時間に待機する。そして、購入できることになった。
このことで、仙台から福岡までの航空券が、1/4の格安で行けることになった。妻は、このよう旅行計画をたてることも、走りに行くのと同じく楽しいらしい。
<金栗四三氏の略歴>
金栗四三は、熊本県玉名市和水町に生まれた。彼は、日本のマラソン創始者として知られている。
旧制玉名中を卒業後、東京高等師範学校に進み、在学中にマラソンを始めた。明治43年(1910年)、20 歳のとき、オリンピック国内予選で当時の世界記録となる2時間32分45秒を樹立し、45年(19112年)には、第5回オリンピック、ストックホルム大会のマラソンの部に、日本人初の出場を果たした。
大正2年(1913年)には、第1回陸上競技選手権大会出場し、前回の世界記録を上回る2時間19分30秒を樹立した。これは、当時としては驚異的な世界記録で、世界に「金栗四三」の名をとどろかした。
箱根マラソン、福岡マラソンを創設するなど、日本のマラソンの基礎を築いたのが金栗四三氏だ。その功績が評価され、昭和30年には紫綬褒章等の表彰を受けている。
昭和58年、92歳で永眠した。生涯で走った延べ距離は約25万㎞、地球6周以上に相当する。
翌年59年には、玉名市名誉市民(当時、和水町)となり、それを記念して本大会が開かれるようになった。
「いだてん〜東京オリムピック噺〜」は、2019年1月6日から12月15日まで放送されたNHK大河ドラマ。それは、日本ではじめてオリンピックに参加した金栗四三と、オリンピックを東京に呼んだ田畑政治を主人公に、明治、大正、昭和とオリンピックの歴史と、それに関わった人々を描いたものだった。
しかし、本年(2020年)の第37回金栗四三翁マラソン大会は、コロナ禍の中にあるため中止となった。
9-2 夢たちばなマラソン(第29回)
~ 額に、手に汗をいっぱい、自分らしく走り抜こう ~
平成15年(2003年)11月23日 福岡県八女市立花町
立花町は福岡県久留米市の南部に位置し、矢部川に沿って、波丘状の山間地帯となっている。
山形県米沢市から立花町までは、仙台空港より長崎空港へ、長崎自動車道と九州自動車道で立花町に向かう。仙台を9時頃に出発して、12時頃には長崎空港には到着した。
第29回夢たちばなマラソン大会は、
「額に、手に汗をいっぱい、自分らしく走り抜こう。」
と案内していた。
インターネットでも、次のように呼びかけていた。
「立花町の豊かな自然や香りを楽しんで下さい。町の収穫祭も同時開催していますので、お連れの方も楽しめること間違いなしです。1度で2度楽しい夢たちばなマラソンへぜひご参加下さい。」
<種目>
12㎞ 5㎞ 3㎞ 2㎞ 1.5㎞
男女親子ペアコース(小学3年生~6年生)、
大会当日が、スタートゴールとなる立花町グラウンドの本部周辺には、たくさんのテントが張られ、大勢の人が活発に動いている。
「さあ、立花町の名産、いろいろありますよ。」
と、会場でチラシが配られた。「第10回立花町収穫感謝祭」と書かれている。会場いっぱいに張られたテントの中は、農産物販売をするためのものだった。
マラソンン大会事務局は、それらのテント群の隅の方にあった。そこで、受付けに行くと、
「あら、香坂さんは山形県からですか。米沢市ってどの辺ですか」
「蔵王スキー場はご存知ですか。」
「スキーは、せえへんもんなあ」
「米沢市は、山形県の最南部の市になっています。」
「そうなんですか。そんな遠くから、ご苦労ですたい。」
遠方に来ると、自分の住んでいる所を紹介するのも一つの楽しみとなる。
受付でゼッケンをもらい、一安心したところで、あらためて周囲を見るとほんとうに多くの人達で賑わっていた。
アコーディオン、かねと太鼓、軽やかな音楽が聞こえてきた。いわゆるちんどん屋のようだ。若い男女の3人グループが演奏していた。それはそれは、軽快なリズムだ。着物スタイルで演奏する若者ちんどん屋に、多くの人が思わず足をとめ、楽しそうに聴いていた。
このトリオは、まだ20代の若者達。祭りでは、アコーディオンと太鼓、かねで音楽を演奏し、場所が変われば、ピアノでも、キーボード等も、きっと何でもこなしてしまうのだろうと思った。
開会式では、大会委員長の町長さんが挨拶された。その冒頭のところで、
「本日は、晴天にも恵まれ、最高のマラソン日和となりました。約1000名の参加者の中には、遠くは山形県米沢市からおこしの方もおられます・・・・。」
遠方の大会では、遠いというだけで、紹介されるので、存在感がある。
10時45分、12㎞のスタートのピストルが鳴った。町民にそれを知らせる花火の空砲が数発打ち上げられた。収穫感謝祭がお目当ての人達も、大声援を送ってくれた。
コースは5㎞までは、アップダウン30m程度の平坦なコースだが、12㎞コースとなると、それが100mを越えるようだ。
5㎞過ぎた頃からコースはどんどん登り始める。足が止まりそうになる。手は必死に振っているが足が坂を歩くように登って行く。何とか登りの折り返しまで行くと、一気に八女市全景のパノラマが眼下に広がった。
峠を登りきって、帰りはほとんど下りコースだ。下りは、しっかり腕を振ってスピード調整をする。そうでないと足を痛めてしまう。それだけ注意して走ればよい。下りだから足が止まるということはなかった。
間もなく、コースは波丘状の山間地帯に入った。道路両側には、みかん、キューイ、カボスなどの畑も散在している。みかんは黄色く実っている。収穫期のようだ。
ようやく、下りのコースが終わって、平坦な街中に入った。沿道には、たくさんの人達が、旗を振って応援してくれる。
街の人達が秋晴れに照らされて、みんな楽しそうだ。町民の皆さんも、この大会を楽しみにしていたのだろう。街の人の声援を受けて、快調にゴールインした。
ちなみに、記録は、
私 59分14秒(12㎞) 妻29分33秒(5㎞)
だった。
結構にアップダウンのコース、私としてはまずまずの走りだったと思う。
走り終わって、選手にサービスされたのは、「だご汁」とおにぎり、美味しくご馳走になった。
「山形県米沢市からおこしの香坂文夫さん、香坂美恵子さん、本部へおいで下さい。遠来賞でございます。」
と、アナウンスされた。
急いで本部まで行くと、町長が私達を待っていた。
「遠いところ、ありがとうございました。来年は30回大会になりますから、お二人で是非、また、いらっしゃって下さい。」
と、歓迎のご挨拶をいただき、遠来賞をいただいた。立花町の名産ワイン、「夢立花」のセットだった。
その他、参加記念品、立花町ワイン、カボス、竹の子の水煮、八女茶、そして糊(エリカ)が、袋に詰められていた。大サービスだった。
秋の収穫祭と共に開催された夢たちばなマラソンは、おみやげいっぱい、懐かしい幼い時代に戻ったような楽しい思い出となった。
9-3 国際青島太平洋マラソン大会(第21回)
南国宮崎の美しく、フラットなコースで
自己記録、初完走を狙いましょう!
期 日:2007年12月9日
場 所:宮崎県宮崎市
本大会には、この年で3年連続の出場となった。
少し遠いのだが、何度でも走ってみたい、お気に入りの大会の一つだ。
宮崎市は、宮崎県の県庁所在地ともなっており、人口が約30万人の中核都市だ。12月の平均気温は10℃、少々肌寒いが、走るにはちょうどよい。
その当時、県知事だった東国原英夫氏は、知名度が高い。空港に降りたときから、土産品や、いろいろなものに、東国原氏の顔写真やイラストが使われ、観光の顔となっていた。
ゲストランナーが萩本欽一氏ということも影響してか、参加者は1万人を超えていた。
東国原氏は、昨年度の本大会はフルマラソンを走り、3時間6分58秒でゴールした。知事をやりながら、これはすごい。
本年は知事業が忙しく、思うように練習時間が取れなかったので、ハーフを走るという。
タレントの萩本欽一氏は、24時間テレビでも走っていたが、本大会は5㎞の部に参加する。
開会式は、知事と欽ちゃんの挨拶があるというので、異常な程混雑していた。二人とも、芸能人だけあって、たくみな話術を駆使した挨拶をして、開会式を盛り上げていた。
県知事自身が、フルマラソンやハーフマラソンを走るということは、私は今まで聞いたことがない。
その他、ゲストランナーは、ヘルシンキオリンピック日本代表、ボストンマラソン優勝の山田敬蔵氏、そして、ボストン優勝、メキシコオリンピック銀メダリスト、ミュンヘンオリンピック5位入賞の輝かしい実績をもつ君原健二氏等、豪華だ。
大会前日の午後は、青島の海岸に沿って作られたウォーキング道をジョギングする。周囲の海岸は、洗濯板が連なるように見える海岸が広がっていた。
一周1.2㎞の青島の周囲をゆっくりジョギングして、青島神社に参拝した。
青島は、日南海岸の入り口にあり、亜熱帯植物のビロウ樹で覆わている小さな島だ。ビロウ樹は椰子科の植物で、国指定天然記念物となっている。約5000本が自生しているという。
青島神社は、日本神話に語られる、「山幸彦と海幸彦」の物語で広く知られている。
神社には、大学合格祈願や結婚祈願等、たくさんの絵馬が奉納されていた。
宮崎市は読売巨人軍のキャンプ地であることもあり、優勝祈願を記した、原辰則監督や清原、安部、二岡等の選手の絵馬もあった。巨人軍の合宿の始まりには、毎年ここで優勝祈願する。
<種目>
3㎞ 5㎞ 10㎞ 視覚障害者の部
ハーフマラソン フルマラソン、
私達は、ハーフマラソンの部にエントリーしており、午前9時10分スタートだ。
時間制限は、ハーフで5時間、フルで7時間、ゆっくり走って下さいという時間設定となっている。宮崎高速自動車道、宮崎インターチェンジのすぐ側もコースに入っている。
スタートの号砲がなった。日南海岸沿いに、一ツ葉有料道路を走る。コース沿いには、熱帯の植物が続く。道路の中央分離帯に植えられたフェニックス、シュロチク、テーブルヤシ等が広々と広がり、左前方に太平洋を見ながら朝の爽やかな空気を吸って走る。
給水場には、水、スポーツドリンク、バナナ、みかん等が置いてある。 第1給水場では、1切れのみかんをとって、汁だけをごくんと飲み込んだ。 第2給水場では、2切れのみかん、第3給水場では、3切れのみかんをとって、水がわりに甘いみかんの汁を飲み込んだ。
17㎞地点にはゼリーステーションあり、当地特産品、冷たい日向夏ゼリーがふるまわれている。それを食べるのを楽しみにして頑張るランナーもいる。
沿道では、ボランティアで配置されている救護班の高校生達が、ランナーの集団が近づく度に、笑顔で手を振りながら精一杯の声援をしてくれた。地域上げてのランナーの歓迎だ。
拍手もしながら、
「がんばれ~。がんばれ~。」
男子生徒も女子生徒もみんな笑顔で、一人一人のランナー達への大きな声援をとばしてくれた。
ゴールは、宮崎県運動公園である。ゴールに近い競技場前では、多くの高校生が旗を振って応援してくれた。
「お帰りなさい、さあ、ラストです。最後まで頑張って・・・・」
宮崎の高校生はほんとうに明るい。
そして、私も無事にゴールした。
ちなみに、記録は、
私 2時間02分30秒 (ハーフ) 妻 2時間13分38秒 (ハーフ)
だった。
走り終えて、たまたま隣り合わせになったランナーが声をかけてきた。
「こんにちは。どちらからですか」
「はい、山形県米沢市からです。」
「山形県からですか。遠いところご苦労様です。」
「あなたはどちらですか。」
「はい、ここ宮崎市でね、ここ10年は、毎年走っているんですよ。」
「それはすごいです。」
「でもねえ、やっぱり、練習しないとだめだなあ、最近ですね、タイムが少しずつ落ちているんですよ。」
「いい時もあり、悪い時もありですよね。」
私からも、話しかけた。
「ずっと走っているんですか。」
「ええと、そうですね。40歳頃からかなあ。今、65歳ですからね。まあ、10年ですね。60代前半までは、フルマラソンにも頻繁に出場して、真面目に走っていましたね。」
「すごいですね。」
「でもね、ある程度の歳になれば、笑顔でゴールするように走るのがいいですね。」
「私もそう思います。」
「最近はハーフが多くなったなあ。今日もハーフをゆっくりのペースでしたね、楽しんで走って笑顔のゴールがいいですね。」
ランナーは、みんな楽しんで走っている。
なお、2021年には第35回大会だが、コロナ禍にあるため、感染対策をしながら、2年ぶりの実施予定となっている。ただし、種目は、フルマラソンのみとし、定員は3,000人減らして9,200人とする、となっている。
次回は、「僕のランラン人生10 海外」の大会についてです。