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僕のランラン人生1 北海道1
<オホーツク海沿岸、釧路>
1-1 網走ハーフマラソン(第13回)
~ 北の大地で感動の風となれ ~
北海道網走市 2002年8月4日
本大会は、北海道網走市で開催された。私達が参加したのは2002年、第13回大会だった。
網走市は、網走国定公園の中心にあり、阿寒、知床国立公園の玄関口になっている。
特に夏には、多くの観光客が訪れる。人口は5万人程で、主な産業は、農林、水産業、観光業等だ。
私達は、新潟から女満別空港までは飛行機、そこからはレンタカーで網走市に到着した。
宿泊するホテルは、網走湖を一望する網走湖畔温泉の一角にある。
ホテルにチェックインして、早速ウォーミングアップした。
宿舎のすぐ下が網走湖だ。ホテル前広場で軽い体操をから、ジョギングで湖畔に向かった。ここは、網走レークビューキャンプ場だ。
夏休みということもあり、家族連れや、ツーリングのキャンプ客で、賑わっていた。色とりどりのテントが張られている。夕食の準備で薪を燃やす煙が、あちこちで立ち上がり始めた。
湖畔に沿って歩道が完備されている。その歩道をゆっくりジョギングして行くと、ボートを漕いでいる学生達の姿が見えてきた。ウェアには北見工業大学ボート部と記されている。ゆっくりしたリズムで、オールが動いていた。学生達は若さにあふれ、力強い。
湖畔でのウォーミングアップを終了し、一風呂浴びて夕食だ。
魚貝類がたっぷりの料理である。オホークス海の魚だろうか。
翌日は大会だ。
<大会種目>
ハーフ 10㎞ 5㎞
私達は10㎞を走った。
網走市の中心街、西三プラザがスタート、フィニッシュとなっている。オホーツク海に面したコースで、ハーフマラソンは藻琴橋先を、10㎞は鱒浦漁港入口を折り返す。
スタートして、オホーツク海、知床半島にある羅臼岳、知床岬を遠くに見ながら走った。真夏の大会だが、海からの風が爽やかであり、景色を楽しみながら、心地よく走ることができた。
ちなみに、記録は、
私 51分04秒(10㎞)
妻 58分55秒(10㎞)
だった。
ゴールすると、
「氷をご自由にお使い下さい」
と、袋に入った氷がで配られた。
網走と言えども、8月初旬は暑い。ランナーにとっては、最高のもてなしだ。タオルを氷で冷やしながら、気持ちよく汗を拭いた。
大会が終了して、私達は、博物館網走監獄を訪ねた。
明治10年代の道東は、まだまだ未開発の地域。当時、多くの囚人達が網走刑務所に送られた。政治犯が多かったという。道路の建設、農地の開拓の労役にあたり、道東の地を拓くことになった。建物は、昭和59年(1984年)まで使われていたが、新房舎が完成し、翌年、博物館として移築された。
使われていた放射状房舎、レンガ門、浴場、教誨堂、味噌醤油倉、庁舎等が博物館として復元され、当時の囚人達の生活の様子が生々しくよみがえる。
ウトロと羅臼を結ぶ国道334号線、通称「知床横断道路」。その頂上は、知床峠展望台だ。そこからは、根室海峡の遥か遠くに浮かぶ国後島まで見ることができた。
「知床旅情」の歌が静かに流れてきた。この有名なヒットソングは、ここ、知床半島の歌だった。
2月から3月にかけての網走は、流氷が接岸する地域としても知られている。その頃になると、流氷お目当ての観光客が網走を訪れる。世界初の流氷観光砕氷船、「おーろら号」が、流氷の中をぬって進み、アザラシやオジロワシなどの動物を見ることもできるという。
1月中旬から4月初旬までは運行されている。
もし、機会に恵まれたら、流氷の頃にもう一度、尋ねてみたい。
しかし、この大会は、2002年をもって終了となり、翌年からは、フルマラソン、オホーツク網走マラソンとして引き継がれた。
1-2 中頓別北緯45度夏まつりマラソン大会(第24回)
~ 小さな小さな手作りの大会 ~
北海道道北 中頓別 2003年8月3日
大会が開かれる中頓別町は、人口が約2,400人という小さな町だ。その町で、8月の第1日曜日の3日、町民マラソン大会が開かれた。
私の住む山形県米沢市から中頓別までは、千歳空港まで行き、そこから稚内空港港行き、空港から中頓別まではレンタカーで現地に到着した。
少し長いが、「中頓別北緯45度夏まつりマラソン大会」という。
この年の参加者は約98人だった。私達が参加した大会の中では、最小規模の大会だ。参加者は地元の方々が中心で、北海道外からのランナーはごく少数のようだ。24回目の大会だ。
大会要項は、カラーコピーの表紙に、参加者名簿を掲載した簡単な冊子をジョイントしたものだった。手作りで、無駄な部数はあまりない。大会は、夏祭り行事の一環だ。
中頓別町は、北緯45度に位置し、日本最北端となる宗谷岬のある稚内市から、国道238号線をオホーツク海沿いに、車で2時間程、南に走ったところにある。
オホーツク海は、稚内、紋別、網走、知床半島にかける北海道北東の海岸に面しており、そこは、日本海と合流する日本北端の海だ。
中頓別メモリアルパークには、祭りの舞台が準備されていた。バンド用のアンプやスピーカー、たくさんの出店が、会場いっぱいに立ち並んでいた。
マラソン大会の前日は、町民上げての夏祭りとなり、広場は大いに盛り上がったとのことだ。
私達は、クッチャロ湖岸にあるホテルに宿泊することにし、夕方には湖畔をジョギングして軽く汗を流した。
クッチャロ湖キャンプ場には、たくさんのテントが張られていた。主に家族連の軽装テントが多い。バイクツーリングを楽しむ人達の一人用テントも結構多い。キャンプの人達は夕食の準備に入っている。あちこちに煙りが上がっていた。
私達は、静かな湖面を見ながらゆっくりジョギングをして、明日の大会に向けて心の準備を整えた。
大会当日、受付を済ませ、いつものようにスタートする場所を確認した。しかし、周囲を見渡してもそれらしいところが見あたらない。よくよく見ると、メモリアルパーク広場のアスファルト舗装の面に、白色チョークで、「スタート」と書かれていた。
「よし、ここからだな。」
と言い聞かせてウォーミングアップをした。全体の準備体操も特にないらしい。
開会式もないのかもしれないと思っていると、スタート十分程前に簡単な挨拶があった。
「今日は、わざわざ山形県米沢市から参加されたランナーもおります・・・。」
と、私達のことも一言紹介された。
スタートも簡単だ。
「1分前です、皆さんスタートの準備して下さい。」
「30秒前」
と、いうことで、あっさりと参加者全員が一斉にスタートした。
ただ、前走車、後走車のバイクがそれぞれ一台ずつついた。何とハーレイダビットソンとCB750だ。このバイクのかっこ良さが、一段と目立っていた。
広い牧場の中を走る。北海道ならではのコースだ。牧場の中の道路が遥かに遠くまで続いている。緑の地平線も半円形に広がって見える。
そんな風景の中を走っていると、北緯45度、日本の北の端っこを走っているという実感がわいてきた。
コース沿いの牧場の牛達は、のんびりと牧草を食べては、また、ゆっくり移動している。私達が走ってくると、草を食べるのやめて、のんびりと見送ってくれた。
「モウ、モウ・・・・・」
と、牛達の声援まで受けた。
北海道の広さを感じさせる北の大地で、ゴールを目指して快調に走った。
いつもより速いようだ。身体がのびのびとして、いい酸素をいっぱいに吸っているからだろうか。束の間の夏を迎えている中頓別、牧場が広々と広がり、爽快に走った。
ちなみに、記録は、
私 48分22秒05秒(10㎞)
妻 27分38秒秒(5㎞)
だった。
中頓別北緯45度夏まつりマラソン大会は、小規模ながらも、短い夏を、町民の皆さんと共に楽しむ、手作りのアットホーム大会だった。
なお、大会は、2021年は第40回を迎えたが、コロナ禍の中にあるため、中止された。
1-3 オホーツクマラソン大会(第20回)
~ 紺碧のオホーツク海、夏の一日をさわやかに走ろう ~
平成16年(2004年)7月18日 紋別~湧別町三里浜
オホーツクマラソン大会は、北海道紋別市で開催された。
紋別市は、オホーツク海に面した海岸線のほぼ中央に位置し、北海道の東北ともいわれている。
人口は約3万人、漁業と酪農が基幹産業の港町だ。
昭和29年(1954年)、紋別町、渚滑村、上渚滑村の3町村が合併して市政施行された。
山形県米沢市からは、飛行機を乗り継いで、女満別空港まで来る。そこからは、車で、国道238号線を約100㎞、北上すると当市に到着する。出発してから、約6時間だ。
大会は、1984年から毎年開催されており、本年で第20回大会だ。
< 種目、参加者概数>
10 ㎞ 149名
ハーフ 84名
フルマラソン 389名
小規模大会だが、参加者の8割はフルマラソンとハーフを走る。
北海道各地からのランナーが主となっているが、京都、大阪、千葉、広島、等全国各地からも参加している。
7月18日(日)
6時40分~ 点呼
7時30分~ フルマラソンの部、スタート
7時45分~ 10㎞、ハーフの部、スタート
12時00分 表彰式/湧別町三里浜
スタート7時45分、それに合わせて、朝食も早めにとらなければならない。給水場も5㎞間隔で設置され、水分補給に万全を期している。
フルマラソンコースは、紋別市スポーツセンターをスタートし、国道238号線を南下する。野鳥が群生するコムケ湖、シブノツナイ湖、そして広大なサロマ湖が広がる湧別町までの42.195㎞だ。
10㎞、20㎞コースは、それぞれに途中でゴールが設置されている。
ワンウエイコースであるから、ゴールしたランナーは、閉会式が催される湧別町までバスで送られる。
フルマラソンのアップダウンが25m程度、ほぼ平坦だ。
そのフルマラソンのゴール地点となる、湧別町三里浜からは、広大なサロマ湖が遥かかなたにひろがって見える。
太平洋につながるオホーツク海も同時に見渡せる。北海道の広々とした大地に加えて、洋々とした湖海の水景色がランナー達を出迎えてくれている。
無事ゴールして一安心。ちなみに、記録は、
私 51 分 10 秒 (10㎞)
妻 58 分 21 秒 (10㎞)
だった。
途中ゴールの10㎞コース、20㎞コースのランナーは、全員がゴールインしたのを見届けて、バスが閉会式場の湧別町三里浜まで移動させてくれた。
バスの中では、今日走って集まった様々なランナー達が隣合わせている。私達のすぐ近くに、年齢差がありそうな若者と年輩ランナーが何やら話していた。
「おじいさんは何歳っすか?」
「わしか、何歳に見えるかね。」
「そうですね、67、8歳くらいかなあ」
「うふふ、そんなに若く言って何も出やせん。」
「あれ、もっと年輩っすか。」
「そうじゃ、もっと年輩だよ。今年で80歳じゃ。」
「ええ、ほんとっすか。」
「ほんとうだよ。」
「すごいなあ。80歳で10㎞を走るなんて。」
「俺、まだ学生っすけど、この大会初めてなんすよ。」
「わしもそうだよ。この大会は初めてだよ。つい最近、手術してな、しばらく走れなかったんだ。今年は、この大会が久しぶりの大会でな、まあ、調子うかがいだな。今日は、何とか10㎞走ったから、もう大丈夫だ。」
「おじいさん、この大会はフルマラソンの参加者が多いっすよね。俺、若いのに10㎞っすから、何だかひけめ感じちゃって・・・・。」
「そんなことは、気にすることないさ。フルはねえ、37、8㎞あたりが一番辛いんだぞ。そこを過ぎればな。何とかゴール出来るさ。」
「おじいさんは、フルは何回か走ったんですか。」
「そうだなあ、若い時にはな。でも今はな、走れるだけで満足さ。」
「すごいなあ、おじいさんは。俺も、もうちょっと頑張るかな。」
大学生だから20歳くらいとして、80歳のおじいさんとは60年もの年齢差がある。まるで、じいちゃんとひ孫のようにして楽しそうに話していた。
「先だって、サロマ湖を走ったからさ、ここのフルマラソンは何だか簡単だよな。100㎞の半分もないからな。」
「サロマ湖は100㎞だからねえ、走った後がつらいよ。しばらくは足が棒みたいになってしまうからな あ。」
「そうそう、サロマ湖を走った後は、筋肉痛で1週間や10日間くらいは足を引きずっているよ」
「こちらは、まあ、ゆっくりだけどね、フルを走っても、サロマ湖のようなすさまじさはないから、気持は楽だよな。」
と、30歳前後らしい若者達。
こちらは、これは定年で職を退いた人らしい人達の話。
「あれ、明日は祝日だよねえ。」
「そうそう、明日は海の日だな。月曜日だけど休日さ。」
「そうか、休日だからだ。確か、明日は小樽で走ろう会の集合があったんだよな。ようし、今日は、これから小樽に行ってみようか。」
どうやら、北海道には走ろう会のような組織でランナー達が集い、楽しんでいるらしい。
オホーツクマラソン大会の閉会式会場では、帆立貝が選手全員に配布された。近くの漁師さんがボランティアで提供してくれるのだそうだ。貝殻に身をおいて、たれをつけながら炭火で焼く。炭火がいくつも準備されており、選手のほとんどが、サロマ湖畔の砂浜で帆立貝を楽しそうに焼いていた。私達も美味しくいただいた。
紋別市では年間イベントとして、「紋別流氷祭り」、「流氷アイスランド共和国」が2月初旬~下旬に、紋別ハマナス祭り、紋別観光港祭り、コムケキャンプ祭り等、多彩に開かれている。
なお、2021年9月19日(日)に開催を予定だった、「第49回オホーツクマラソン大会」は、コロナ禍にあるため、開催中止となっている。
1-4 釧路湿原マラソン(第33回)
~悠久の大地を駆け抜けた時、そこには笑顔が待っている~
北海道釧路市 2005年7月31日
本大会は、釧路市の恒例の行事として毎年開催されている。
「地球の素顔に出会えそうな釧路大湿原をゆっくりジョギングしませんか。」
という案内だった。
主要な路線には、シャトルバスが完備され、選手達に不自由がないように、十分な準備がなされていた。
<種目>
ランニングの部 30㎞ 10㎞ 3㎞
ウォーキングの部 30㎞ 15㎞
参加者計 2,300人
ゲストランナーは、95東京ハーフで優勝した、山梨学院大学出身の井畑政等選手。1時間00分05秒の記録は、その当時の日本学生記録となった。もう一人のゲストランナーは、マラソン自己ベスト記録は、2時間15分09秒の記録を持つ押切章宏選手。
スピードスケート500m、1000mで世界に名高い三宮恵利子選手も招かれていた。彼女は、長野オリンピック、ソルトレイクオリンピック、ワールドカップ6勝という日本を代表するスピートスケーターだ。豪華な招待選手達だ。
私達は、10㎞の部を走った。この種目は、主に釧路市内の中心市街地を走るコースとなっている。
釧路市民陸上競技場前をスタートし、三原東西線、柳橋通りにって釧路公立大学前、愛国北園通、ビックリドンキー、共栄橋通から大規模運動公園へ、そして、釧路市民陸上競技場を一周してゴールインとなる。
この運動公園は、広い敷地に広々とつくられており、ゴールのテープが見えてから、ゴールするまでの距離がとても長く感じられた。
今年から追加された30㎞は、10㎞までは同じで、途中から釧路湿原道路に入る。湿原の15㎞地点を折返す。
ウォーキングの部は、釧路湿原の中にある30㎞マラソンコースの折り返し点がスタートとなる。日本唯一の湿原風景を、ゆっくりと存分に楽しみたい約1,000人のウォーカーが参加した。
今回の私達は、10㎞を走ったから、釧路市内の街並みの様子が、おおよそ感じ取るとことができた。
ちなみに、記録は、
私 50分21秒
妻 57分55秒
だった。
釧路市は、2005年、阿寒町、音別町と合併し、新釧路市としてスタートした。釧路空港も整備され、国際観光都市としての街作りにも力を入れている。
遙かに広がる釧路湿原は、その広さでは日本最大規模を誇り、そこには、多くの野生動植物が生息している。冬の積雪は少ないが、夏は霧が幻想的に町を包む。この霧のために、飛行機が飛べないこともある。
釧路市の中心部を流れる釧路川は、屈斜路湖を源として、太平洋まで約90㎞を流れる。北海道4番目に長い川ということだ。
屈斜路湖から河口まで、ダムが一つもないことから、川下りするカヌーイストの聖地となっている。
その上流部は、屈斜路湖の水を吐き出す野生の川であり、下流部は、幾多の支川を合流させて河幅を大きくし、釧路湿原を大きく蛇行して流れる。そして、太平洋に合流する。
私達は、大会が終了して、釧路にもう一泊し、翌日は、屈斜路湖からスタートするカヌーの旅に出かけた。船上で、屈斜路湖から釧路川の導水口の川底をよく見ると、岩魚などの清流魚が群れをなして泳いでいた。屈斜路湖から泳いで来る自然魚だ。釣り人もあちらこちらにいた。
ゆったりと流れる釧路川に浮かんだカヌーは、流れに任せるようにして、ゆっくりゆっくり下って行く。
鳥のさえずりや、時たま、木々の葉が落ちる音も聴こえる。自然の深い懐の中、大地の鼓動までが感じられるようだ。ガイドさんの巧みな案内を聴き、のんびり、のんびりと川を下った。
なお、2021年9月19日(日)に開催を予定していた、第49回釧路湿原マラソン2021の開催は、コロナ禍の中あるため、中止となっている。
なお、次回は、「北海道2」、札幌、富良野、美瑛の大会についてです。