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吉祥寺の喫茶店からはじまった

昔、私が大学3年生だった年の冬に、吉祥寺の喫茶店で上京してきた両親と大げんかをした事がある。

池袋に住んでいた私がなぜ、その当時両親と3人でわざわざ中央線に乗って吉祥寺に行ったのかはよく思い出せない。

だが、とにかくあれが吉祥寺での出来事だったことをなぜだかよく覚えている。
もう15年近くも前の話だ。

その年の冬の東京はとても寒かった。
井之頭公園をあてもなく一周した後、冷え切った体を温めるために、適当に見つけた喫茶店に入り、私たちは3人でコーヒーを飲んだ。古いながらもシックで上品な佇まいの店で、店主のこだわりと思わしきアンティークの重厚な丸テーブルが並び、いろいろな花模様の器が揃えられていた。

暖房がよくきいた店内では、カップルたちが肩を寄せ合いながら楽しそうに会話をしている。
「この中で本音を話している男女はどれだけいるだろうか」
私はそんなどうでもいいことを考えながら、一緒に注文したモンブランを食べ、話のタイミングを見計らっていた。

「私、大学を卒業したら映画の専門学校に通って脚本を学びたいんだけど。だから就職は先延ばしにしたい。ほら、パンフレットも見てよ。」

周りの友人たちがその年の秋からの就職活動に目の色を変えて励んでいる頃、私は両親に何食わぬ顔でそう言い、ツヤのあるニスが塗られたウォルナットのテーブルの上に、映画学校のパンフレットを置いた。

それまで、自分自身の考えだけで何かをやりたいと思った事がなかった私にとって、ようやく見つけたたった一つの夢だと思ったのだ。

「断固として反対。お前は社会に出た事がないからわからないだろうね。はっきり言う。せっかく東京の大学まで行かせたのに先がどうなるのかもわからないこんな業界に行くこと、賛成するわけがないだろ。」

「それに、仕事と趣味は別。映画が嫌いになるよ。そんな簡単に脚本家になれるほどね、世の中甘くないよ。それよりせっかく新卒なんだから、今しか挑戦できない会社を受けたほうがいいだろう。お父さんはそんなこと許しません。」

父はあからさまに不機嫌な顔で私にそのようなことを言って、ガシャン、という音を立ててコーヒーカップをソーサーに置いた。

母は、しばらくはただ頷いているだけだったが、渋々といった顔で口を開いた。

「Fumiちゃんは、普通が嫌なだけじゃないのかしら?どんな会社でもいいから、とりあえず就職した方がいいんじゃないの。今回ばかりはお父さんと同じ意見だわ。」

「二人とも、どうして私のことを応援してくれないのよ!お父さんとお母さんこそ、1個の会社しか知らないんだから、世の中のことなんて全然知らないはずじゃない!」

当時の私は、感情や思いを言葉にして口にするというのが得意ではなかったはずだったが、昔から両親の前では相手の逆鱗に触れるような言葉がスラスラと口から飛び出てくるのだ。

私たちは、互いの地雷を踏み合うような激論を繰り広げるうちに、暖くて雰囲気のいい店内の空気を凍らせかねないほどの状況にまでなっていたので、しばらくしてから、ひとまず店を後にすることにした。

もちろん私たち親子のことなど、店内の誰一人として気にも留めてなかったであろうが。ただ、その店のモンブランはとても美味しかった。店の場所も名前もすっかり忘れてしまったが。

「とにかく、就職活動はやってみてから決めなよ。話はそこから。生活費も家賃も学費も、ぜーんぶ、自分で工面するぐらいの気概があるなら別だけどな。じゃあ一旦この話は終わり。」

帰りの電車の中で、父はそのようなことを言った。


温室育ちで世間知らずの大学生だった私には、たった一人で生きる力も、親の反対を押し切って夢のために生き抜く根性も、持ち合わせていなかった。

結局、私はあっさりと思い直して、その話の1ヶ月後には、栗色だった髪を黒に染めて、就職活動をすることにしたのだ。


今振り返れば、あれは就職することへ反発するためのただの口実だった。

ただ、21歳だった私には、やりたいことも、働きたい会社もわからなかった。

周囲は航空業界や金融、商社など大企業へのきっぷを手にするため、皆それぞれに努力していた。

その一方で私は、「人よりも映画が好き」ということしか、自分の内側には持ち合わせていなかった。

馬鹿馬鹿しい話だが本当に、そう思っていたのだ。

どんなに型通りの自己分析をしても、就職セミナーに出向いても、周りから、とりあえず大企業を受けた方がいいと言われても、ぜんぜん心が動かなかった。

それに、自分が社会に出てから役に立ちそうなことや、得意そうなことなど、その時の私には、何ひとつわからなかったのだ。


結局、周囲の多くの学生たちと同じように、私は4年間の大学生活の後、すぐに会社員となった。

私のような不真面目な就活生でもなんとかなるような、まだリーマンショック前の良い時代の学生だった。

会社に就職した後の私は、随分と変わった。

不思議なことに、あれだけ強く「就職するのが嫌だ」と思っていたのが嘘のように、社会のレールに乗ることや会社で役割があることが、私に何よりの自信と安心感を与えてくれていたのだ。皮肉なものだ。

だんだんと世の中の仕組みがわかってくると、「もっと大企業を目指した方が良かったかも」とさえ思い、夜中、後悔し続けたこともある。

だが、私は、他のだれかに自分のやりたいことを乞う必要がなくなり、自分の好きなことを自分のお金と責任で取り組めるその生活に、とても満足していた。

好きな時に喫茶店に行き、何も気にすることなくコーヒーを飲んだりモンブランを食べることができるという生活を。

眠れないぐらい辛いことも、地団駄を踏みたくなるような日も、もちろんあったが、自分で選んだ場所で、自分で選んだ仕事をしながら毎日を生きることは、学生の頃よりも、ずっと自由になれたように感じたのだ。

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「挑戦しない人を肯定する」

私が最近敬愛している作家、カズオイシグロが何かのインタビューでこのような趣旨のことを述べていたことがあり、それがとても印象に残っている。引用元がどうしても見つからないのだが、ずっと前から自分のスマートフォンのメモ帳に残っている言葉だ。

人と違う挑戦をしている人や、今ある価値観を覆すような行動を取れる人は素敵だ。何よりそうすれば、「物語の主人公になれる」と、私は思っていた。
それに私は、「そちら側の人間」になりたい、自分ならなれるはずだ、と思いつづけてきた。おめでたいほどに、ただ漠然とだ。


だが、(イシグロ氏の作品の多くがそうであるように)「ただ普通に生きている人々」の人生を肯定し、美しい物語にする彼の言葉もまた同時に素敵だと感じるようになった。

決して後ろ向きの言葉ではない。


実際のところ「私服で面接ができる」という、本当にしかたのない理由で、私は新卒でアパレル企業に就職した。

しばらくしてその会社はやめてしまったが、結果的にその選択は間違っていなかったと今では思っている。
学生時代は口下手だと思っていたが、やってみたら、私は販売や接客がかなり得意な方だった。その延長で、私はマーケティングという領域に興味を持つようになり、その後は10年以上ずっと、マーケティング畑を渡り歩いている。30歳を過ぎてから急に思い立ち、学生時代には目も向けたことがなかったTOEICで高得点を取得したのは、ささやかな自慢だ。

人と違った大それた挑戦など、何一つしていないが、目の前に提示された道を歩んでみなければ、分からなかったことがたくさんあったことを知った。
実際には大人になってからの方が昔よりもずっと、たくさんのことに挑戦していたように思う。

全部、後に振り返ってみて初めて気がつくことだ。


あれから15年以上経った今でも、なぜか吉祥寺のあの喫茶店で、両親とコーヒーを飲んで喧嘩した時のことをよく思い出す。

そういえば、あれからずっと、自分の好きなように生きてきた私のことを、両親に一度も咎められたことはない。

「お前は社会に出たことがないからわからないだろうが・・」

あの時は腹わたが煮え繰り返るほどムカついた父の言葉だが、今では、ちょっと笑えてきてしまうような思い出だ。

あの時、別の選択をしていたらどうなっていただろう。
そう思うことが、もちろんないわけではない。
だがそのようなことは他にもたくさんある。考えたって仕方のないことなのかもしれない。


私は自分で選択をしてきた目の前の暮らしも、今の自分自身も、結構気に入っている。


だからこれからもきっと、後になって振り返りながら、色々なことに気がついていくのだと思う。



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