最期までダンディズムを貫いた男、根本陸夫
※これはライティングスクールの「追悼文」という課題で、2022年9月に書いた文章です。note掲載にあたって、本日2024年2月3日付で加筆修正しております。
私が㈱福岡ダイエーホークスに経理社員として入社した1996年、専務と呼ばれていたその人、根本陸夫さんはテレビで見たことのある年配男性だった。社会人になりたての19歳で下っ端の目には、周りにいる大人の中でも、特に優しい雰囲気のおじいちゃんに映った。外見も中身もまだまだ若い私を見つけると、その人は必ずこういった。
「おい、いくつになった」
今思い出しても、目頭が熱くなる。その人はある日突然、消えるようにこの世からいなくなったからだ――。
スポーツ新聞などで目にする記事。肩書は決まって「球界のドン」や「寝業師」というおどろおどろしいものばかり。そこに添えられている写真の眼光は、私には全く見せない鋭すぎるものだった。「本当の根本さんはどちらなんだろう」と、いつも不思議に感じていた。
彼は、球団事務所にいつも来るわけではなく、月の半分はどこかの地方にいっているという話であった。事務所にいる日は、決まって社員の女の子たちをランチに連れていってくれた。女性は全員で6人。そのうちの3人が一緒にいけば、残りの3人は次回にお供をした。
根本さんはクリスチャンというのもあってか、昔ながらの日本人のような印象ではなく、ハイカラさんだった。「今日はパンにするか?」と洋食を選ぶこともあり、心の中では「おしゃれなじいさん!」と思っていた。そもそも私は、父母両家の祖父ともに和食一本で、そういった和風な老人しか知らなかった。
たとえば会社の営業日、月の半分で女の子たちをランチに連れていくとすると、少なく見積もっても10日。それを全部奢ってくれるのだ。ものすごい出費だと思うのだが、実はそれだけではない。
「今日はちょっと車に乗って行ってみるか」
そう言って、タクシーに乗り近くのレストランを訪れたり、コーチで引っ張ってくる予定の人や、新入団の若手選手も連れて大人数で食事をすることも。それも当然、全て根本さんが支払う。
どういうつもりなのか、一度も本人から聞いたことはないが、
「それが当たり前。俺の役目なんだよ」
とでもいわんばかりのオーラを出していた。例えるならば、年の離れた兄貴分。皆とにかく慕った。いろいろな逸話があり、それを物語るのは、彼の存在があったからこそのチームの団結と、球団内の和やかな雰囲気だった。昔も今も、世の中ではフロント(球団事務所)と選手の間には一線を引かれているような印象もあるが、会社の飲み会(10~20人程度)には、必ず王貞治監督(当時)の姿もあった。根本さんが呼ぶのだ。そして私のような若輩者でも、彼らの隣やそばに座ることがあった。そこには和気あいあいとした、いい空気が流れていた。当時はよくわからずに過ごしていたが、そのような場所にいられたのは、今考えるととても貴重な経験だった。
元々世間に知られた実績は、一番長く在籍した埼玉西武ライオンズでのもの。しかしながら、73歳で急逝するまでの6年間という短い期間ではあったが、人生最後となる福岡ダイエーホークスでの仕事が多くの人の心に刻まれることとなる。
西武にて、実質的なGMとして球団運営に携わっていた93年、親会社・㈱ダイエー社長の中内功氏により招聘され、監督に就任し現場復帰をする。
その年のシーズン終了後、西武からは秋山幸二、渡辺智男、内山智之、ダイエーからは佐々木誠、村田勝喜、橋本武広による「世紀のトレード」が行われた。また同年に始まったフリーエージェント制度にて、阪神の松永浩美を獲得。さらには、同年のドラフト会議より実施された逆指名制度では、小久保裕紀、渡辺秀一が入団した。
翌94年はパリーグ4位に終わったものの、17年ぶりに勝率5割を超えた。根本氏はその年限りで監督を退任。球団専務となり、水面下で何度も接触し続け、やっと口説き落とした王貞治氏を後任監督に据えた。そしてドラフト会議。駒澤大学進学が内定していた城島健司を指名。この流れだけでも、球界をあっ! と驚かせてきたオフシーズンのニュース。
だがそれでは終わらない。とどめは、西武のエース投手・工藤公康をFAにて、併せて監督就任が噂されていた石毛宏典までも獲得するなど、寝業師ぶりをこれでもかと存分に発揮した。ホークス入団からのこの流れは、今でも語り継がれる根本伝説だ。これらが今日ある”ホークス=常勝軍団”の礎となった。
いつも球団事務所に現れる時は、スーツにソフトハット。やっぱり「おしゃれなじいさん」なのだ。戦時中の兵隊時代にはクリスチャンが理由で、上官にひどく殴られたことがあると聞いた。ハイカラでかっこいいけれど、虚勢を張らず、自分の辛かった経験もオープンに語るような人だった。
そんな当たり前の日常が突然終わる。1999年4月、心筋梗塞で自宅にて倒れる。その時もわざわざスーツに着替え、タクシーで病院に向かったことで、結果的に手遅れとなったという。
「最期までかっこよすぎだよ、根本さん」
球場で催されたお別れ会では、どうしようとも涙が溢れてきて止まらなかった。
その年、ホークスは球団創設11年目にして初優勝を飾った。シーズン中には氏の遺影がベンチに置かれ、優勝時の胴上げでは選手たちによって、その遺影が替わるがわる頭上に掲げられた。
当時、多くの人が「堅気の人間ではない」と思っていたはずだ。腹に肝を据え、近寄り難い威圧感を醸し出している人だったからだ。それでも、氏が不在のところでの誹謗中傷の声は一つも聞こえてこなかった。絶対に他人の文句を言わない人だったからだろう。そして言葉にこそしなくとも「責任は全て俺が取るから」という気持ちが、十分過ぎるほど皆に伝わっていたというのもある。
「こんな人になりたい」と思える氏が、いつも心の中に優しい笑顔で佇んでいる。私は年下の後輩とお茶や食事をする際は、人生の先輩として必ずご馳走する。そして、その後輩がまた次の世代へと、この心意気を受け継いでくれることを期待する。根本さんがそうしてきたように。
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