目の不自由な石井さんとディオール展を見にいく、に遭遇する。そして同行する。
東京都現代美術館で開催された企画展「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」(以下「ディオール展」)に行った。そして、当日に会場で遭遇した面識のない人たちと展示を巡った。それは、とてもエキサイティングな経験になった。
ディオール展は、クリスチャン・ディオールの回顧展。建築家の重松象平がデザインした展示空間も話題となり、一ヶ月ごとに販売される事前予約チケットはほぼ完売し、わずかな当日券も30分ほどで完売する日も多い。「展示空間がとにかくすごい」という評判を聞き、幸運にもチケットが取れたので行ってみた。
これ、本で読んだやつだ!
会場で、白杖を持った人と友人らしき人々の3人が会話をしながら鑑賞していた。会場の広さと混雑、同伴者と来ている人も多いので、会話をしていること自体はたいして気にならない。ただ会話の内容が聞こえてきたとき、「これは『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』(川内有緒 著)でやっていたやつだ!」と思った。
『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』は、全盲の美術鑑賞者である白鳥さんと、アートを見に行くエッセイだ。アートを目の前にして、見えるものを白鳥さんに説明する。しかし、見る人によって解釈が食い違ったり、説明するうちに見え方が変わっていったりする。そして、それをみんなでおもしろがる。
私は、しばらくは3人の近くで聞き耳を立てていたのだが、このままでは怪しいし、こんなにおもしろい機会に遭遇することはきっと無い。なので「目に見えない白鳥さんを読んだのですが、それを皆さんが実際にやっていておもしろそうなので、私も一緒に回っていいですか!?」と思いきって声をかけてみた。3人は驚きながらも、優しく受け入れてくれた。
白杖の人は、石井健介さん。かつては見えていたが、突然視力を失ったそうだ。なので色を知っている。全盲ではなく、コントラストが強ければ、近づいてその形を把握できるらしい。青は認識しやすい色だそうだが、「この展示は照明が黄みがかっていて、見えにくい」と言っていたりもした。「目の見えない」にも色々なレイヤーがあるのだと、自分の無知を思い知った。身近に目の不自由な人がいないと、一括りにしてしまいがちだ。
展示を言葉にする
さて、ここからは展示作品と、鑑賞時のコミュニケーションをいくつか紹介する。画像を載せてしまうとつまらないので、画像は別記事にまとめた。文章だけで、どんな作品か想像しながら読んでいただきたい。
Origami, Kimono, Fruits Basket
私がこの3人に気づいたのは、ディオールが日本に影響を受けたデザインを紹介する区画。
曰く、「折り紙の鶴を折る途中みたいなのが胸についていて、着物を羽織っている。頭に果物のカゴをひっくり返してかぶっていて、串が刺さってる。」確かに。
<画像参照>
謎の油絵
ディオールの歴代デザイナーの作品を展示した区画の突き当たりには、大きな油絵があった。白や赤や黒などの絵の具が、おそらくペインティングナイフでキャンバスに盛るように塗られている抽象画だ。絵の中の赤色が印象的で、ちょっとグロテスクな印象も受けた。私には、女性の横顔であるように感じたが、「人の正面からの顔に見える」「何にも見えない」など、意見は割れた。<画像参照>
しかし後でスマホの写真を見返していると、私にも人の正面からの顔に見えた。展示の中盤で「そういえばクリスチャン・ディオール本人の写真がないね」という話になり、ディオールの写真を検索した。この抽象画は、ディオールの肖像画だったのではないかという話をして、確かにそうかもしれないと後から思った。
おそらく、この絵を見る距離が近すぎたのもあるだろう。遠くから見たら、ぼんやりと人の正面の顔のシルエットを捉えることができたかもしれない。しかし、この絵に至るまでに多くのファッションが展示されており、人混みもある。この絵の存在には、目の前に来るまではなかなか気がつかない。近くだと、絵の全体像より絵の具の厚みや色の混ざり方に目がいく。
展示の最後にも、同じくらいのサイズの抽象画があり、これもおそらくクリスチャン・ディオールの肖像画と思われる。なぜ、ディオールのポートレート写真が展示されていなかったのだろう。ディオールの功績や名言の引用は随所に散りばめられているものの、まるで実在しなかったかのようだ。その方が「伝説」のような雰囲気が強調されるからだろうか。でもその掴みどころが無い方が面白いかもしれない。「わかりやすく」は「つまらない」にもつながる。
夜会に集いし強者たち
そしてディオール展の目玉でもある、吹き抜けに設置された「ディオールの夜会」。ドレスとプロジェクションマッピングで、壮大な空間である。これを「全員レイア姫の、スターウォーズの最高評議会」と例えていた。的を射た表現に、私はしばらく笑っていた。これはウケを狙うために捻り出された表現ではなく、壮大さを伝えようとしてたどり着いた見立てだという所が良い。
<画像参照>
キレイで不気味な白い部屋
ドレスの試作品であるトワルを展示した「ディオールのアトリエ」のコーナーでは、昔アパレルで働いていたという石井さんの解説も入る。真っ白な部屋で洗練された印象もあるが、白に囲まれるという異空間に、少し不気味さもある。<画像参照>
チャーミングな臓器
バッグの区画では、アーティストとコラボした、もはや物を入れる機能を放棄したバッグもある。<画像参照>
中でも話が盛り上がったのは、あるバッグについていたチャームだ。緑のバッグに付けられたベージュのチャームは、決して「かわいい」と感じる形ではない。根が伸びた球根のような、ミジンコのような、でもどちらもしっくりこない。そのチャームを見て「これ胆のうじゃない?」という話が出た。石井さんの友人お二人は、人体に詳しいらしく、「確かに!腎臓かな~と思ったけど、この管の感じは胆のうだ!」ということで、「胆のうのチャームがついたバッグ」という結論で落ち着いた。<画像参照>
この一連のやりとりを、石井さんは楽しそうに聞いていた。友人たちのユニークな経歴を、誇らしさも含みながら私に紹介してくれた。
まとめ ~視覚によって飛び去っていくもの〜
展示自体も大ボリュームで、他にも興味深いやりとりがたくさんあったが、長くなってしまうので割愛する。エキサイティングで、とても良い経験ができた。「怪しい人だと思われるかもしれないけど、ここで声をかけなかったら後できっと後悔する!」と、思い切って行動を起こしてよかった。
そして、私たちはいかに視覚情報に依存しているのかを実感した。
このディオール展はアトラクションのようだった。チケットがなかなか取れないプレミア感も相まって、空間に身を置いているだけで「なんか、すごい」という満足感を得ることができてしまう。全てが「なんか、すごい」に集約されてしまって、目の前のものに疑問を持たないまま流されていく。しかし今回、目の代わりになって言語化するステップを経ることで「これはなんでこの形なんだろう?」「なんでこんな展示方法なんだろう?」と、視覚情報で満足して「考えることを止める状態」から、一歩抜け出せたように思う。
インターネットやスマホの普及によって、視覚情報は日常に溢れるようになった。私たちはそれを、浅く薄く大量に消費していく。視覚情報で「なんとなくわかったような気になる」ような満足感を得て、しかしそれはさらなる乾きとなり、新しい視覚情報を次々と求めていくようになる。
しかし視覚で捉えた情報を言語化し、対話することで、目で見たものを咀嚼して味わうことができる。しかも石井さんが求めているのは正しい解説ではなく、気楽なおしゃべりだ。なので、自分の率直な意見にを言うことができる。そこには自分の興味や感性が混じり、自分について知るきっかけにもなる。ただアトラクションになされるがまま流されるのではなく、自分の芯をしっかり携えて回遊できる。きっと私はこの展示を1人で回っていたら、「なんか、すごい」と言う漠然とした感想を抱いただけになっていただろう。
石井さんのとコミュニケーションは、情報の海の中で、自分の芯をしっかり持ったまま泳ぐことを助けてくれる。石井さんを助けているのではなく、実は石井さんに助けられている一面もある、面白い関係性だ。
見ず知らずの私を、温かく輪に迎え入れていただき、ありがとうございました。
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