余話
余話1、『消費税分入れて……、トータル250円までは良いんじゃない?』
* * *
それは遠足3日前の放課後だった。
3年3組の中心的存在、朝倉優芽はクラス替え前にはキョウコと同じ2組に所属していた。
行動的なユメは早くから遠足の計画を立てていて、母にライトバンの運転を頼んで遠くの安売りスーパーに行くこと、その際に空席が6人分あることを周囲へ喧伝した。
すぐにその席は埋まった。
すると、選に漏れて激しく泣きじゃくる子が出てきたため、事態収拾のために急遽、元2組保護者グループSNSにて会議が行なわれた。
学年で一番の人望を集めるユメの存在が背中を押したのだろう。すんなり4人の協力者が一緒に車を出すと手を挙げた。この時点で、15人という大人数の児童がそのスーパーへ同行を申し出ていた。
ユメの計画は最終的に、児童18人、保護者6人の小遠足を実現させた。
キョウコは念願かなってその一員に加われた児童うちの一人で、3年1組の児童の父の車に乗せてもらうこととなった。
そのスーパーまでは15分かかるのだが、その最中、子供たちはスマホを活用して器用に会議を行なった。
「聞いて、聞いて。10円お菓子も9円にわりびきだって!?」
「何よ、キョウコ。それ知らないで付いてきたの?それは良いんだけど、消費税の計算がちょっとめんどうよね……」
「……あ。ねぇ!名案思いついたの!!消費税分入れて、250円までは良いんじゃない?ねぇ、お父さん、そのくらい良いでしょ?」
「ああ。皆が賛成すれば問題ないだろうさ」
「うん、分かった。ユメちゃんにも聞いてみるわ」
* * *
会社等の健康診断にて。
皆、着衣で体重計に乗る際、『えっと……、計測値マイナス2キロでいいよね?』『冬だから……、マイナス3キロ』と申し合わせ……無い?そうですか。
『欧米人にとっての状況倫理とは、各個人が(自己決定して)与えられた状況に適当に変形してルールを適用することである。だが、日本人にとっての状況倫理とは、周りの人々のしているようにルールを変形することである。「状況」とはこの場合、第二の匿名のルールになってしまう。わが国では、個人は第一の顕在的ルール(駐輪禁止)ではなく第二の潜在的ルール(駐輪容認)に従って身を処す。このように二つのルールがあり、個人はそれをうまく使い分けることが要求されるのである』(河合隼雄『母性社会日本の病理』)
『「場」に適応したルールこそ「よいルール」である』
(『〈対話〉のない社会』より引用)
第二の匿名のルール(予算、税込み250円)があり、第一の顕在的ルール(予算200円)の枠内で行動した者の方が圧倒的少数だったとき、何を『正しい』と考えるべきだろうか?
キョウコが匿名のルールの枠内に納まった行動していたとき、柔軟に規則の裏を読み取れないミホこそ、責められてしまうのではないか?
肌でヒシヒシと感じていたことだ。
『馬鹿正直に規則(顕在的ルール)を守る』人間こそが、日本では社会適正に欠けている人間だと排除されるのではないか、と。
ミホとキョウコ、社会適正が欠けているのは果たしてどちらだろう?
余話2、『何かあったら、「親の言うことに従った」と言いなさい』
* * *
キョウコの父、奥山氏は気を揉んでいた。
最近、娘の表情が冴えないのだ。
(キョウコの奴、何かあったんだろうかなぁ。うーん……、無理に聞き出そうとするとぐずるからなぁ……)
キョウコが幼稚園児の頃、奥山氏は仕事に忙殺されて、家族とは顔すらろくに合わせられない日々が続いた。
そして一昨年、ようやく娘と向き合う時間的な余裕がうまれたというのに、彼は大きく躓いた。
突然、『これをしなさい』『そんなことはやるな』と一方的な指図、ダメ出しするようになった父親を、キョウコは拒絶したのだ。
(俺は未だ父親としての信頼を獲得してなかったのだ。なんて馬鹿な……)
父娘関係の一塁ベースを踏み忘れていたことに気がついた奥山氏は大いに反省し、専ら聞き役に徹するようにして関係の再構築を図った。
今のところ少しずつではあるが、その努力は実を結びつつある。しかし、依然、奥山氏は積極的に話を聞き出す技術がずっと苦手、未熟であった。
「はぁ……」
急な仕事の依頼が入り、とうとう娘を外へ連れ出せぬまま奥山氏はゴールデンウィークの終わりを迎えた。
「……おや?」
どんな埋め合わせようかと頭を抱えていた奥山氏の視界の隅に、カレンダーに貼ってあった小さく可愛らしいシールが目に入った。
「ほぅ、今月は遠足があるのか……」
遠足の朝、キョウコは自分の部屋で何度もポーズを変え、姿見に映る自分の姿を眺めてはニヤけていた。
ワンピースは去年母と一緒に選んだお気に入りの洒落着だ。そして腰には父に先週買ってもらったピカピカのウエストポーチ、彼女は何度も触っては存在を確かめた。
「ふふ……」
[コン、コン……]
一拍置いて、奥山氏は娘の部屋の扉を開けた。
「おお。キョウコ、良く似合ってるじゃないか」
「うん。パパ、ありがとう」
「で、ポーチには何を入れるんだ?」
「四葉のクローバーを沢山」
娘の返答に奥山氏は怪訝な表情を浮かべた。
「何だ、せっかくだから退屈しのぎに使える何か……、そうだ!」
奥山氏は早足でダイニングに行くと、棚に常備しているソフトキャンディーの袋を手にとり、すぐ踵を返す。娘の元に戻ると、キャンディーの袋を開き、ポーチの中にザラザラと中身を移した。
「道中の糖質補給にな。友達にも分けるんだぞ」
これは今日子の好物。虫歯にならぬよう、土日に4個だけ与えているのだが、今回は特別だ。
「パ、パパ。こういうのは……」
「まぁ待て、キョウコ。楽しい思い出はスパイスがあるとより良いんだよ」
「でも……」
不安そうな娘に、奥山氏はニカッと笑いかけた。
「なぁに、大丈夫だ。何かあったら、「親の言うことに従った」と言えばいい。先生には俺が、ちゃあんと言ってやるからな」
* * *
奥山氏の行為へのツッコミはいらないだろう。
問題は、実際にトラブルが起きた際、萎縮してしまって口を閉ざしてしまう子がいることだ。
『彼らは言葉を信じていない。あたりまえである。彼らは小学校以来、自分の語ることが(とくに授業中)周りの者に尊重されてこなかった。自分の言葉によって全体の状況を変えることができるなど想像もつかない。自分の言葉には威力がなく、優等生の言葉には威力がある。この差別をずっと見つめてきたのである』
(『〈対話〉のない社会』より引用)
また、気質的に弁解が困難な子、軽い自閉症の子など珍しくないだろう。
『盗人にも三分の理』という諺があるが(『一寸の虫にも五分の魂』を並べると、その小ささが際立つ)、一分の弁解も潔しとしない空気に支配された日本の閉塞的社会では、「考え、議論する道徳」など、どだい無理ではないか?
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