目印としての言葉
いまくらいがちょうどいいよね、という季節。
今日の東京などは、まさにそうです。歩いて汗をかくような暑さでもなく、かといって重ね着が必要な寒さでもなく。ぽかぽかてくてく、緑のあるところにでもお散歩したいような天気です。
けれどもきっと、この「ちょうどいいよね」と言い合える季節はすぐに終わります。「ちょっと冷えるね」になり、「かなり寒くなったね」になり、ぐるぐるマフラー巻いた格好が当たり前の、冬になる。「ちょうどいい季節」のことがうまく思い出せなくなり、そんなことを言い合っていたっけな、という言葉の記憶だけが残される。
だからね、「蒸し風呂みたいな暑さですね」「痛いくらいの寒さですね」「もうこのまま海に行きたいくらいの青空ですね」みたいな体感の言葉、たくさん残しておいたほうがいいと思うんです。自分の歩いてきた道の、目印みたいなものとして。
「つまらない時候の挨拶は抜きで、さっさと本題に入ろう!」という考えもわからなくはないんですが、その言葉さえ、すでに時候の挨拶みたいな定型句になってるし。暑いですなあ、冷えてきましたなあ、という言葉を残しておくこと、ぜんぜん無駄じゃないと思うんですよ。
「あのときおれたち、あんなこと言ってたんだよね。信じられないよね」
季節の話にかぎらず、そうやって過去を笑えるようになること、素敵だと思うんだよな。