蛇口の水を、がぶがぶと。
自分は若いのか、若くないのか。
誰にとってもこれは、もう一生ついてまわる問いかけなんだと思う。ウソみたいなほんとうの話をしよう。ぼくが最初に自らの「老い」を自覚したのは、4歳のときだった。幼稚園の年少さんから年中さんにあがるとき、自分よりも若い子が台頭してくることを知って、戦慄したおぼえがある。それまでぼくは、同じ団地に住むお姉ちゃんたちにかわいがってもらっていたのだけれど、(年少さんの)あいつやあいつが現れてしまったら、ぼくはかわいがってもらえなくなる。ぼくはもう「いちばんちっちゃくてかわいい子」ではなくなってしまう。そんな危機感に打ち震えたのだ。
それ以降も、たとえば高校球児が自分よりも年少になったとき。自分がもはやティーンエイジャーではなくなったとき。ロックンロールな文脈においては大切な27歳を迎えてしまったとき。30歳を超えたとき。40代に突入したとき。いろんな場面でぼくは「もう若くない」と思ってきたし、それはきっと現在20歳や25歳や30歳の人たち——ぼくからすると若いにもほどがある人たち——も同じだろう。そしてまた、ぼくは50歳になっても60歳になっても70歳になっても、そのつど「もう若くない」と思い、数年前を振り返っては「あのころぼくは若かった」と思うのである。
若かったころのぺだる
それで現在、ぼくは自分のことを若いと思ったり、おっさんだと思ったり、日や場面によってその認識はくるくるするのだけれども、自分のなかで老いた部分とはなんなのか、きのう帰宅する電車のなかでじっくり考えた。
たとえば、むっくりと中年らしい肉がついてきたこと。これは老いというよりむしろ運動の不足であり、節制の不足である。深酒したときに残る、翌日のダメージ。これはあきらかにひどくなっているが、若いときから宿酔いはてきめんだったようにも思う。徹夜仕事が苦しくなってきたのも、いま老いたというよりは、若いころのおれが元気すぎたような気がする。
いろいろ考えてたどり着いた結論は、「水」だった。
若い人を形容する擬態語に「ぴちぴち」ということばがあるが、鏡に映る自分はいかにも「かさかさ」である。白髪が増えたことも「かさかさ」の一種と言えそうだし、抜け毛だって頭皮や毛根の「かさかさ」が原因なのかもしれない。なんというかこう、ぜんたいにうるおいがないのだ、10年・20年前に比べると。
おそらくこれは見た目だけにかぎらない由々しき問題で、加齢とともにこころのほうも「かさかさ」になっている可能性は、まったく否定できない。脳の話ではなく、こころの話として。
水を飲もうよ、おれよ。
蛇口から出てくる水を、そのままがぶがぶ飲んでたあのころみたいにさ。
忙しさにかまけて最近、こころにとっての水を、飲めていないような気がするのだ。「かさかさ」をなくすのは、ヒアルロン酸とか乳液とかじゃなく、蛇口の水なんだよやっぱり。