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軸のある人たち。

自分には「軸」となるものがないよなあ、と思う。

いまもむかしもライターの世界では、「専門性を持て」とか「得意分野を持て」とかのアドバイスが語られる。実際ぼくもこれまで、初対面の編集者さんから「得意分野はなんですか?」と、何度となく訊かれてきた。そのたびにへらへらしながら「まあ、得意分野がないのが得意分野っていうかぁ」なんて答えてきたのだけど、そしてそれは間違っていないと思うのだけど、仕事上の得意分野とは別に「軸」がないんだよなあ、おれには。と、ときどきそんなことを思うのだ。

軸となるものは別に、シェイクスピアでもオートバイでもラーメンでも黒澤明でも、なんでもいい。なにかひとつ、さまざまな思いについて、「そこを起点に考える」という軸というか幹みたいなものを持っていたら、枝葉の広がり方もずいぶん違っただろうなあと思う。

たとえばぼくは転勤族の子どもで、福岡県内をぐるぐるぐるぐる転校してまわる幼少時代を過ごした。だからぼくにとっての「地元」は、特定の土地や風景ではなく、もっと漠然とした、概念としての「ふくおか」だ。

知識についても一事が万事そんな感じで、つまみ食いばかりをくり返した結果、好き嫌いなくなんでも食べられる舌と胃袋はできたけど、これといった大好物も存在しないというか、やっぱり「軸」がないのだ。


きのうビートルズを「軸」とした方々のすばらしい演奏に触れながら、心底いいなあ、と思った。「それだけしかできない」ではなく、「そこを起点になんでもできる」強さと深さを肌で感じたのだ。

アイデンティティとまでは言わないけれど、それで悩んでいるわけではないんだけど、「いつでもここに戻れる」という軸。おれにはないんだよなあ。