いい気になる、ということについて。
だれかに毒を吐いてやろう、と思っているわけではない。
いつかしっかり書いてみたい(つまりは考えてみたい)とは思っていたものの、たぶんストレートに書くと毒づいてる中年にしか映らないだろうなあ、それはちっともうれしくないことだよなあ、と躊躇していたテーマがある。しかし昨日と今日、糸井重里さんが「今日のダーリン」のなかで、かなりていねいに、そして肯定的な面を踏まえながら、それについて書かれていた。一部、引用させていただこう。
人は、怖がりでこころの小さいところからはじまって、「いい気になってる」を繰り返して大きくなる。舞台に上がるとは、そういうことなのだろうと思う。
(2018年8月28日 ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」より)
ぼく自身は、この「いい気になる」ということとこれまでどうやって付き合ってきたのだろうか。ずっと考えてきたのに、よくわからないままなのだ。
もちろん、ある年齢くらいからは「いい気にならないように」気をつけていたように思う。ただ、本気で「いい気にならないように」すると、「留まるエネルギー」のようなものに縛られてしまう。死んで動かなくなる状態が最も「いい気になってない」。
「いい気になる」は分量や場面の判断が大事らしいのだ。
(2018年8月29日 ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」より)
これまでぼくは、かなりがんばって「いい気にならないように」つとめてきた。こんなところで「いい気」になったらおしまいだ、だってお前なんて、ただの一発屋じゃないか。自分ではどういうつもりか知らないけれど、まわりから見たらお前は「嫌われる勇気の一発屋」だぞ。そう自分を戒めながら、いまを生きている。
その反動なのだろう、よそで「いい気になっている」人を見かけると、なんだか胸がぞわぞわするのだ。腹が立つのではなく、心配になるのでもなく、そして「そういうものさ」と素通りすることもできず、なんだか胸がぞわぞわする。別の視点から「いい気になること」の大切さを知った上でも、やはりぞわぞわする。いったいこれはなんなのか。
たぶん、根っこにあるのはこれなんだよなあ、と辞書を引いた。
ぼくの胸をぞわぞわさせる「いい気になっている」人たちは、ほぼ例外なくなんらかの「能書き」をたれている。辞書にあるように能書きとは、お薬の効能を記した「効能書き」から派生したことばであり、効くともしれない効能について、あれこれ偉そうにしゃべる人が「能書きたれ」だ。
たとえばどこかの編集者が「こうすれば売れる」と語るとき。あるいはライターが「こうすれば書ける」と語るとき。ヒットの法則やクリエイティブの秘訣について、あれこれあれこれ語るとき。正直ぼくの耳にはその9割が、実体を伴わない能書きにしか聞こえない。
たぶん、ほんとうにクリエイティブで、ほんとうにアイデアに優れた人は、もっとことばを大事にするのだ。テキトーな能書きで類型化することなく、ことばにしないまま実直に仕事を進めたり、選びに選んだことばで自身の仕事を語っていったり。ぼくが能書きにぞわぞわするのは、その「いい気になっている」さまではなく、ことばに対するデリカシーのなさ、なのだ。
さて。ここで議論の矢は、自分に向けられる。
いったいお前はどうなんだ。なんでも「文章の教科書」みたいなものをつくろうとしているらしいじゃないか。それなんて、まさしく能書きの典型じゃないか。
今日、『20歳の自分に受けさせたい文章講義』という本の17刷見本が届いた。この本に「能書き」成分は少ないと思うのだけど、次に出す本はこれよりもっと、能書きから離れたものになるんじゃないかと思う。
「能書きたれ」には、なりたくない。