知識と教養とセンスについて。
「そこはやっぱり教養になっちゃうんだよなあ」
いけ好かない人間どもの会話と思われるだろうが、その結論に落ち着くことは多い。「あの人は、頭はいいんだろうけどねえ」みたいな会話の流れから。あるいは「彼もがんばってはいるんだけどねえ」みたいな会話のおわりとして。「なーにが足りないんだろね?」を考え、最終的に出てくることばは「教養」だったりする。なんとなくずるくてこわい結論だなあ、と思いつつも、ほかに言いようがない。
なにがずるいのか。なにがこわいのか。
教養のことを、「幅広い知識」くらいに考えている人は多い。むつかしい本をたくさん読んで、たくさん勉強して、たくさんの情報をインプットしていけば、教養が磨かれる。そう考えている人は多い。
でも、それは違うのだ。
たとえば日本国語大辞典によると、教養とは「学問、知識などによって養われた品位」のことだとされている。
品位? 同じ辞書によると「品位」とは、「人や事物にそなわる気高さや立派さ」のことなんだという。ここでさらに「気高い」や「立派」について調べていくのが辞書遊びのおもしろさなんだけれど、とりあえずそれは横に置いて、教養とはなにか。
ぼくの考える教養とは、限りなく「センス」に近いものだ。
100の知識を仕入れようと1000の知識を仕入れようと、その先に等しく(日本国語大辞典が指摘するような)「品位」が生まれるとは思えない。一定程度の学問的知識を教養にまで育てられるためには、やはりセンスめいたものが必要になると思っている。
じゃあ、その「センスめいたもの」とはなにか。
未知なるものに触れたとき、それを「記憶」するのか「咀嚼」するのか、その違いである。飲むのか噛むのか、その違いだ。ごくごく飲んで、ただ記憶されただけの知識から教養は育たない。じゅうぶんな咀嚼、口腔内での格闘を経た知識のかたまりは、教養になりうる。ような気がする。
そしてたぶん、未知なるものを噛んで味わう気力や体力は、年齢を重ねるごとに減退していく。若いとき、なにに触れ、どのように格闘してきたか。そこでの咀嚼によって自分をどう変えてきたか。あるいはこれから、どれだけ変わる勇気を持ち続けられるのか。そこはもう、賢いとか賢くないとかいうよりも、態度の話であり、かぎりなくセンスに近い話だ。
教養とは、揺さぶられ、変わってきた回数に相関するものなのかもしれない。