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ギャグとユーモアの違いについて。

失言、と呼ばれる発言がある。

思わず、うっかりと、どういう理由なのか、つい口にしてしまった不用意な発言。不用意どころか不謹慎な、社会常識から逸脱した発言。だいたいそういう意味のことばだろう。報道レベルでは年老いた男性政治家が口にするもの、と相場が決まっているが、もちろん一般人にも失言はあるし、性差もないだろうし、ぼく自身も口にすることはあるだろう。

で、どうして失言は出てしまうのか。

まず考えられるのは、無知である。人間なら誰だって、思想信条の自由はある。頭のなかで、あるいは胸の奥で、どんなひどいことを考えていようとそれは個人の自由だ。しかし、「言ってはいけない」ことは当然ある。だれかを傷つけたり、差別を助長したり、犯罪や違法行為をあおったり、そういうことは「言ってはいけない」。

そして「言ってはいけない」の境界線は時代とともに変化するもので、時代を知らず、社会を知らず、むかしながらの「おれの村」のなかで生きている人は、それが「言ってはいけない」ことであると知らないのかもしれない。無知ゆえに、失言してしまうのかもしれない。


しかしそれは理由の一端でしかなく、意外におおきいのは「あせり」じゃないかと思うのだ。

たとえば、政治家が支援者の前でスピーチをする。自分はあまり話が上手じゃない、というコンプレックスがある。実際、みんな黙って退屈そうに聞いている。ああ、どうしよう。だから嫌なんだよ、こういう挨拶をするのは。などとあせった政治家がつい、ウケようとする。笑いを取って、場を盛り上げようとする。しかし彼にその話術はない。そこで安易なギャグを、たとえばダジャレを、下ネタを、あるいは差別的なことばを、笑わせようと口にする。それが彼なりのギャグであることを察した聴衆は、愛想笑いをする。彼はウケたと思う。よし、これからもこうやってギャグを交えよう、と思う。そうして安易なギャグのつもりで、場を盛り上げる発言のつもりで言ったことばが、失言となる。

政治家のスピーチにかぎらず、飲み会でのあの人、と置き換えて考えても、こういう人は非常に多い。


半年近く前、書体デザイナーの鳥海修さんの授業を観覧した。

その日の日記にぼくは「落ち着いていて、自信とユーモアがあって、とても素敵な方だった。自信、落ち着き、ユーモア。その順番が大切なんだろうな」と書いている。

自分という人間に自信を持っている。自信があるから落ち着きが出る。落ち着きがあるから(ギャグではない)ユーモアが出てくる。

日常におけるギャグとユーモアの違いをずっとことばにしたかったのだけれど、センスや才能の話ではなく、おそらく「自信の有無」なのだと思った。多くの場合ギャグは不安を覆い隠す逃げの一手でしかなく、ユーモアとは、落ち着きのある人が差し出すサービスなのだ。