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書き手にとってのおしゃべりとは。

おしゃべりのありがたさを考える。

ぼくはライターであり、書くことを職業とする人間だ。実際にいまもこうして、お金にもならない文章をつらつらと書いている。書くことを苦にしないし、むしろ好きだったりする。

そしてどうして書くことが好きなのかと問われた際には、「話すのが苦手だから」と答えたりする。対面するとうまく話せない。緊張のあまり思ったことがことばにできない。家に帰ってから「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」ばかりを考える。それは事実だ。ひとりで書くかぎりにおいては緊張もしないし、ゆっくりと、自分のペースでことばを探すことができる。

しかし一方、おしゃべりにはおしゃべり特有のたのしさがある。

相手のことばに促されて、その場の雰囲気にのせられて、話の流れに後押しされて、思わぬ自分が、つまりはことばが、あふれ出てくるのだ。上気した自分が夢中にことばを発しながらも、客観の自分が「わあ、おれこんなこと言ってるよ」なんて驚いている、そういうひとときがおしゃべりのなかにはある。

もちろん、文章を書くうえでもことばがあふれ出ることはある。しかしながらこのとき、「わあ、おれこんなこと書いてるよ」と驚く客観の自分はいない。夢中になって書いている、まわりがなにも見えていない主観の自分がいるのみである。

それだからして、あふれ出るように書かれたことばは危うい。人を傷つけるものになっていたり、著しく公平さを欠いたものになっていたり、極論と曲解のフルコースだったりする。夢中になってしゃべっていながらも、やはり誰かが目の前にいるほうが客観を意識しやすいのだ。

文章のプロとして身を立てるために必要なのは、テクニックではなく、情熱でもなく、書きながら(それを書いていない)客観の自分を降臨させられる落ち着きだ。「おいおい、それはちょっと言いすぎだよ」とか「そこまで言っちゃうと嘘にならない?」とか、そういう「書いていない自分」を書きながらにして同時に降臨させること。簡単にいうと、書きながら読み、読みながら書けることが、いちばん大事なんだとぼくは思っている。

そして書く自分が先走りすぎたときには、だれかと話す。話すことで客観の自分を取り戻す。その話し相手として編集者がいるのだし、友だちがいるのだと思うのだ。ひとりきりのままに書くのは、ときに危ういのである。