見出し画像

もっとドリブルをしよう

たとえばどこかで、すっごくおもしろい人の、おもしろいインタビューを読んだとする。生き方についての話でも、働き方についての話でも、恋愛についての話でも、あるいは社会問題の話についてでも、なんでもいい。目からウロコが落ちるような話を読んだとする。

それがネット上の記事であった場合、ぼくも含めた多くの人は、その記事を「シェア」する。みんな読んだほうがいいよ、というわけだ。また、紙の本や講演会などであった場合には、「ああ、すごくいい話だ。あいつにも聞かせてやりたいなあ」と思うだろう。

たしかに、ためになる話やおもしろい話をシェアしたい欲求は、自然なものだ。レストランでおいしい料理を食べたときに「今度はあの子と一緒に来たいな。あの子にもこの料理を食べさせてあげたいな。あの子と一緒に食べたいな」と恋人を想うこころは、とても自然で、とてもすてきなものだと思う。

でも、どうなんだろう。

その「みんな読んだほうがいいよ」という態度は、ほんとのほんとは目からウロコが落ちきっていないんじゃないのか。「おれのこと」として、受け止めきれていないんじゃないのか。「あいつに読ませたい」「あいつに聞かせたい」なんて思ってる場合じゃなく、もっともっと「おれ」が読み、聞かなきゃいけないんじゃないか。

ぼくはすごい人のすごい話を聞いて、それを原稿としてたくさんの人に伝えることを仕事にしているけれど、ほんとうに目からウロコを落として、ほんとうにいい仕事ができるときには、いつも「みんなに知ってほしい」よりも先に、「おれが知りたい」がある。もう少し正確にいうと「あのときのおれに教えたい」がある。昨日のおれ、去年のおれ、十年前のおれ。想定読者は、いつも「おれ」だ。

「あいつに聞かせたい」の落とし穴、「すごい話」をシェアしたりリツイートしたりすることの怖さは、そのボタンをクリックした瞬間、「おれはできてるけどね」や「おれはわかってたけどね」に脳内変換されてしまいがちなところにある。自分のなかで、処理済みの情報になってしまうのだ。

誰かにパスする前に、まずはそのボールをドリブルすること。

そうだなあ。原稿を書くって、ラストパスに向けたドリブル突破みたいなものかもしれない。