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普通であることの勇気。

ある時期からとても、生きるのが楽になった。

つらいなあ、苦しいなあ、という自覚があったわけではない。それでも心に相当の負荷がかかっていたのは間違いなくて、ある事実を受け入れることにしたとき、重たい荷物を降ろしたような解放感が確実にあった。

30歳過ぎくらいのことだっただろうか。ぼくは自分が「ふつうの人」であることを認め、しずかに受け入れた。才人・奇人ではなく、平々たる凡人。とりたてて優れたところのない、どこにでもいる人。自分をそう規定することにしたのだ。

もちろん凡人といえど、個人である。個人であるからには、なんらかの個性を持っている。しかしながらその個性も凡庸たるもので、特別な輝きを放っているわけではない。言うなればダイヤモンドやサファイヤ、またその原石などではなく、ただの「ほかとは違ったかたちをした石ころ」。それが自分なのだと決めたのである。

凡人であることを受け入れると、なにが変わるか。

日常から、大根演技が消えていく。「つよく見せよう」「かっこよく見せよう」「かしこく見せよう」「おもしろく見せよう」「へんな人に見せよう」といった煩悩が少しずつ減っていく。

凡人が、おのれを才人・奇人に見せようと演技するとき、そこにはたいへんな苦悩がつきまとうものだ。なぜってあなた、できもしない役を演じて生きているのだ。それが大根演技であることを周囲に悟られながら。悟られていることを内心知りながら。それでもなお、おれは才人・奇人なのだと自分に言い聞かせながら。そういう二重・三重の自意識スパイラルから解放されるよろこびは、ほんっと「10年早く知りたかった」である。

さらにまた、自分が凡人なのだとわかっていれば、「まっとうな努力」を惜しまなくなる。そりゃあそうだろう。才人・奇人だったら努力を飛び級して成果をつかむなんてストーリーも待っていそうだけれど、こちとらそこらの凡人なのだ。つまらんやつだ、と周囲に思われながらも、こつこつせっせと汗をかく以外にない。

そしてもうひとつ。まっとうな努力を続けていると、自分があこがれてきた「あの人」や「この人」も、じつは凡人だったことが理解できてくる。そうなんだよ。ビッカビカに輝く「あの人」や「この人」も、なんだかんだでこの道を通ってきたんだよ。そうじゃないと、あれはできないよ。——そういう当たり前の景色が見えるようになってくる。

なので、レッツ・凡人、ビバ・凡人。

『嫌われる勇気』という本の企画段階での仮タイトルは、『普通であることの勇気』だった。