運がいいとか悪いとか。
誰かを誰かに、紹介することがある。
この人とあの人を会わせたらおもしろいだろうなあ。この人とあの人は気が合うだろうなあ。この人があの人に会っていないなんて、もったいないよ。ほとんどの場合、そんな感じで紹介する。
一方、誰かから「あの人を紹介してください」と頼まれ、それに応じることはあまりない。いや、もちろん「よしきた!」と動くことはある。博多弁で「まかせんしゃい!」と立ち上がることはある。けれども、シンプルに「そんなのやだよ」と思うことのほうが多いし、「おれに頼むなよ」と思ったりもする。文字にして書いてみると、いかにも了見の狭い男だ。
「あの人を紹介してほしい」とお願いしてくる誰かは、ぼくのことを見ていない。ぼくをするっと通り越して「あの人」だけを見ている。向こう岸にいる「あの人」だけを。その危なっかしい目線のありようがぼくに紹介を躊躇させるのだろう。自分にとって大事なあの人を、この人の前に差し出したくないと思わせるのだろう。
ライターという仕事柄、これまでたくさんの方々にインタビューしてきた。それぞれの人生を振り返りながら、みなさん「運」の大切さを語る。自分がここまでこれたのは、ひとえに運がよかったからだと語る。よくよく聞いてみるとそこでの運とは、人との「縁」であることがわかる。運よくあの人と出会えたことによって、道が開けたと。しかしながら出会いとは、道で偶然肩をぶつけるようにして起きるものではなく、多くの場合は誰かからの「紹介」や、場のセッティングを通じて生まれる類いのものだ。じゃあ「あの人を紹介してください!」みたいな人脈拡張ゲームに励んでいればいいのかというとたぶんそんなことはなく、やはり「目の前のあなた」と真摯に向き合った結果、思わぬ紹介なりセッティングなりが生まれるのだと思う。つまり自力がおよぶのは「目の前のあなた」との向き合い方までで、その先に紹介が生まれるかどうかは、あくまでも他力。ゆえに換言するなら「運」がいちばん似つかわしいひと言なのだろう。
運と呼ばれるものの正体が縁であり、その縁が紹介によって生まれるものであるならば、運とはひとえに「目の前のあなた」とどう向き合うかによって決まるものなのだ。