見つける人、見つけてもらう人。
編集者とライターの関係について考える。
おそらくは「編集者と作家」の関係もそうだと思うけれど、ぼくは作家じゃないので、ここでは「編集者とライター」の話としておく。
編集者はいつも、いいライターを探している。そしてライターはいい編集者に見つけてもらうことを待っている。発注する側と、受注する側。紙媒体の時代は完全にそうだったし、たぶんウェブ媒体でも基本の構図は変わらないはずだ。
20代の一時期、ぼくは髪の毛を金色に染めていた。飽き足らず、赤に染めたこともあった。編集者に憶えてもらうためだ。時はインターネット黎明期、当然SNSなどもなく、見つけてもらったり憶えてもらったりする方法——つまりは目立つ方法——は、馬鹿なぼくの頭にはそれくらいしか思いつかなかった。あの、わけもわからず金髪にしてしまった自分を憶えているから、ぼくはいまの若いライターさんの「若気の至り」を正面から責める気になれない。こっちはもっとひどい若気の至りをしでかしていたのだ。
ただ、これだけは言える。
編集者とは、「才能を探すこと」を仕事にしている人たちだ。仮にあなたが金髪的な小細工で目立ったとして、そこをきっかけに「おっ、あいつおもしろそうじゃん」と見つけてくれる編集者は、しょせんその程度の探し方しかしていない人たちなのだ。
ほんとうに優れた編集者は、あなたが金髪だろうが黒髪だろうがバズっていようがフォロワーが何人だろうが、ちゃんとそこにある才能を見つけてくれる。それだけ真剣に、切実に、誠意と敬意を持って才能を探している。
そういう、「ほんとうの才能を探すプロ」たちの、誠実な目の存在を信じることが、結果として誠実な仕事を続けていくモチベーションになるのだ。
ぼくはいまでも信じていますよ。
まだ出会っていない、けれどもぼくのような人間を探してくれているはずの編集者の存在を。そしてぼくは、いつその人に見つけてもらってもいいように、毎日自分に恥じない仕事をしているつもりです。
これは編集者とライターに限らず、どんな仕事や人間関係でも大事なことだと思っています。そしてぼくも探しているからね、自分の思いを託せるほんとうの編集者を。