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5年前のダウンジャケット。
そのうち自分の認識も変わってくるのだろうか。
たとえば、5年前や10年前の自分を振り返る。書いた文章でもいいし、写真でもいい。やった仕事で振り返ることもできるし、当時の記憶を振り返ることもできなくはないだろう。すると、まあ当然のように「若かったなあ」と思う。そしてそこでの若さとは、ほとんど未熟さとイコールだったりする。つまり「あのころは若かったなあ。なんにも知らなかったよなあ。まったく馬鹿だったなあ」と振り返ることになる。
それだからして、5年前や10年前の自分に戻りたいとは思わない。せっかくここまで成長できたのに、いろいろ知ることができたのに、また「あそこ」に戻ってやりなおしだなんて、想像するだけでもいやだ。いまのところ自分にとっての「若さ」とはあこがれの対象ではなく、恥ずかしさの代名詞なのである。
で、この感覚は何歳くらいまで続くのだろうか。頭を働かせることをやめていないかぎり、70歳や80歳になっても「あのころの自分は若かったよなあ。まったく馬鹿だったなあ」と思っていそうな気もする。しかし体力は年齢に応じて落ちていくのだろうから、「あのころ」の自分をうらやましくあこがれたりするのかもしれない。
たわむれに5年前のきょう、自分がなにを書いていたのかを探した。なんでも、買ったばかりのダウンジャケットをおろしていたらしい。今年のぼくはまだダウンに袖を通しておらず、寒くなった寒くなったと言いつつも今年はやはり暖冬なのかなあ、と思ったりした。そして5年間ずっと着続けてきたダウンジャケット、そろそろあたらしいやつを買いなおしてもいいのかなあ、とも思った。
翌日のnoteを見てみると、5年前のいまごろは『取材・執筆・推敲』を書いていたらしい。
ぜんぜん若くもない、40歳代なかばの中年だったけれども、それ相応の若さや熱さをもって当時は書いていた。あのころの自分を、その若さを馬鹿にするつもりはまったくない。そのままがんばれ、と思う。けれども現在の自分と5年前の自分は同じようで違っていて、だったら5年後の自分がなにをしているかなんてわからんよなあ、と思わされる。
ブログや日記って、すごくいい振り返りの記録になるんだけど、それを書き残してくれるのは自分しかいないんですよね。他人は書いてくれないし、他人には書けないんです、「わたしのブログ」や「わたしの日記」は。
自分が自分のことばで自分を書き残しているからこそ、何年か経ったあとに読み返した自分が「あのころの自分は若かったよなあ」と思えるわけで。そういう振り返りの材料を残しておけば、未来の自分はかならず感謝してくれると思います。